【読書記録】「女縁」を生きた女たち


「女縁」を生きた女たち
上野千鶴子(著)
岩波現代文庫



近頃、独居老人の孤独死ワーキングプアなどの問題を射程にとらえた、
無縁社会」という言葉が唱えられることが多くなっています。
新聞などのマスメディアも、「無縁社会」をテーマにした、
様々な特集を展開し、反響をよんでいます。
(関連するものでは、朝日新聞の特集「弧族の国」など)
現代では、「縁」―人々のつながり―について
問い直すことが喫緊の課題であると、感じている人が多くなっているように思います。



しかしながら、わたしたちのつながりについての議論は
ともすれば「人はひとりでは生きていけない」といった
規範的な言説、人生論めいた言説に支配されてしまうことがあります。
とはいえ私たちは今、




なぜ「縁」を問うのか、私たちの「縁」はどのように変容しているのか、
「縁」はいつ変容したのか、「縁」が変容した時代背景は何か…



こうした根本的な問いを、規範によってコントロール不可能になりつつある
現実から突きつけられているのではないでしょうか。



○「縁」とは何か?
「縁」。
日本人の人間関係、人間関係観を表す言葉として
私たちにはなじみの深いことばです。



「縁」については、古来人類学、民俗学歴史学などの研究者が
歴史資料の分析や農村社会のフィールドワークを通じて、
様々な概念を提出しています。



米山俊直(人類学)】
「血縁」…親子、兄弟、親戚関係に代表されるつながり。
かつて日本のムラには血縁に基づく同族集団が、
本家・分家制度などの優劣関係のもと存在していた。
「地縁」…ある一定範囲の同じ地域に住んでいることで生じるつながり。
ご近所づきあいのようなものから、地域の自治会・PTAなどのフォーマルな組織を
介したものまで、その形態はさまざま。
「社縁」…サラリーマンの人間関係に代表される、会社を通じたつながり。



網野善彦(歴史学)】

「有縁」(うえん)…ひとところに定住するもの(定住者)がつくりだすつながり。
「無縁」(むえん)…ひとところに定住せず移ろいゆくもの(非定住者)が
つくりだすつながり。
※網野の「無縁」は、現在頻繁に耳にする「無縁」とは
ニュアンス・定義を異にしています。
網野は「無縁」を、拘束性のない都市型の人間関係ととらえ、
日本の都市文化や伝統の形成に、「無縁」が寄与していたと指摘。
日本の都市形成と都市的な人間関係の創出に関する
中世と現代の連続性をとらえた、重要な概念です。



現代の日本社会は、地域の差はあれど、
「血縁」「地縁」「有縁」が相対的に弱まっていると言えるでしょう。
背景には、古くは貨幣経済の進展、戦後はとりわけ都市化=郊外の形成と核家族
といった大きな要因が存在します。以下おおまかな流れを追っていきましょう。



核家族や都市住民の「故郷」であった農村は
「血縁」「地縁」の重層的なつながりによって生産・消費活動を行っていました。
(農村における米や農産物といった食料、衣服や生活必需品の生産
家や道路の普請は、多くの働き手が必要な共同的なものでした。)
しかし、貨幣経済の進展によって町から便利なものを買うことで
調達できるようになるにつれて、
人々はことあるごとに共同作業をする必要がなくなっていきます。
そして戦後は農村から仕事を求めて、都市へ若者が流出していく。
農村はつながる人間と、つながる機会を失っていったのです。



他方、戦後急速に大都市の周辺に拡がった郊外では、
「子育て」というニーズが多くの住民に共通して存在していたため、
住民は「地縁」に基づく活動(自治会活動・PTA活動・子供会など)を
積極的に展開していきました。
しかし多くの家庭の子どもが育った1980年頃より、
「地縁」に基づく活動は担い手の高齢化、後継者不足といった
問題を抱えるようになり、弱体化していきます。



加えて「会社人間」を生み出した「社縁」も
現代では弱まってきているといわれます。
(社員旅行や社内行事に参加したことがない、という人も多いかもしれません)
※背景には構造的な経済不況に伴う企業のコスト削減圧力の高まり、
非正規労働者の増加に伴う企業内格差の生成などが考えられます。



○選択縁
このように、大まかに見れば
現代では都市、農村(「地方」と言い換えましょう)、郊外において
「血縁」「地縁」「有縁」にもとづくつながりが、
あまりみられなくなりつつあります。
では現代の人々は、まったくつながらなくなったのかと言われると
当然ながらそうではありません。



現代では都市における、趣味や文化と関わるゆるやかなつながりは
花盛りともいえます。
また職業生活の外でも、何か共通の目標や志に基づくつながり
(ボランティア活動など)をもつことのできる機会は多く、
これらのつながりや活動は、
現代の人々の日常生活に大きな位置を占めていると言えるでしょう。



本書の著者、上野千鶴子はこうしたつながりを
「選択縁」と定義します。



○「女縁」とは?
本書で上野がとりあげているのは、
1980年代頃の「主婦」の社会生活です。



上野は従来主婦は「○○さんの奥さん」「△△さんちのお嫁さん」
「□□くんちのお母さん」といった、
出自を知られた「誰かの付属物」として生きていかざるをえなかったと
指摘しています。
「血縁」「地縁」「有縁」に基づくつながりにおいて彼女たちは
その拘束のなか、家事や子育てなどの活動に従事してきたと。



ところが1980年代頃より、子育てをひと段落させた主婦たちが、
家庭(血縁)や地域(地縁)を飛び出し、
「自分の名前」で趣味や志に基づく活動を積極的に展開するケースが
見られるようになります。
(本書では「仏像研究会」「主婦問題の学習会」「図書館のボランティア」
などが紹介されています。英語に親しむ主婦が翻訳会社を立ち上げ、
起業した、という例も。)
上野はこのような主婦の趣味や志に基づくつながりを
「女縁」と名づけました。



【女縁の特徴】
上野は「女縁」の集団や、
「女縁」を豊富に有する主婦への調査(アンケート・聞き取り)から
「女縁」の様々な特徴について言明しています。
その一部を紹介しましょう。



個人主義
「女縁」でつながる主婦たちは自分のたのしみや志に忠実で
集団の論理に拘束されません。
(「グループにとってわたしは何か」ではなく、「わたしにとってグループは何か」
だけが問題だから、グループとして何かをなしとげたりはあまり関心がない。
当然のように対外活動もしない。≪本書p87≫)
また夫や子供を持ち出して自分を語ったり、
夫や子供をものさしにして他人を評価することを拒みます。


・ネットワーク型のつながり
世の中の多くの組織は、会社や行政組織を顕著な例として
タテ型の役割文化、指揮系統を有しています。
「女縁」の多くはこのような組織ではなく、
内部に序列のない、メンバーの優劣を立場によって決めない
平等志向の強い組織です。※とはいえ役割分担は存在します。



・インフォーマルなリーダーの重要性
「女縁」の中心となる人物は多くは「言いだしっぺ」。
アクティブで知的好奇心のつよい、社交的な方が多く
「女縁」のつながりはこうしたインフォーマルなリーダーの
パーソナリティに、その活動を負っています。



これらの特徴をもつ「女縁」は、
「血縁」「地縁」「社縁」にはない、
新しい生き方を女性に提供し、
オルタナティブな人々のつながりを社会に提起していると
上野は高く評価します。



この評価に対して「女縁」を
女性の本質的な性質に基づくもの、
主婦という立場だからできること、
と評価される方もいるかもしれません。
確かに、主婦による「女縁」の創出は、
夫の高所得(シングルインカムでも家庭を運営できる経済力)や
長時間労働(家を出てさまざまな活動ができるだけの時間的資源)に
支えられていたという限界はあります。



しかし「女縁」は必ずしも女性や主婦にとどまらない、
意義を持っているのではないでしょうか。
「女縁」のようなつながりは、時代の変化を考慮しつつも、
新しいつながりの形式として、一般化して検証する必要があります。



○考察―「女縁」のこれから/高齢者のつながり
それでは「女縁」を、現代の高齢者に関わるつながりに
あてはめて考えていきましょう。
高齢化がすすむ現代社会においては、
「高齢者のつながり」は、老々介護が顕在化するなかで
高齢者の経済的リスクを回避する資源として、
また高齢者の精神的な充足、生きがいのもととして、
注目が集まっています。



高齢者は確かに肉体的な面で移動コストが高いため、
(家庭や地域を出るのが若者に比べ大変)
血縁(家族)や地縁(地域)には今後も一定の役割が求められます。
その意味では、血縁や地縁を通じた高齢者の経済的支援や
介護支援制度の再整備は必要です。



とはいえ高齢者は家族や地域で固まり、
つながってくれていれば良いわけではない。
高齢者に関わる様々な問題は、明らかに家族や地域の努力で
対処できる容量を超えつつあります。
高齢者は高齢者同士でネットワークを形成し、
家族や地域の外の問題や課題に対して積極的に取り組んでもらう
必要があるのではないか。



いや、高齢者同士につながりを限定する必要などないでしょう。
定年を迎えた高齢者が、社縁の外で
下の世代とつながる場所や機会がもっとあっても良いのかもしれない。



このように考えれば「女縁」のようなつながりをもつニーズは、
これからの高齢者にこそ存在していると言えましょう。
高齢者を家庭、とりわけ地域にとどめる必要性はそもそも存在しないのではないか?
高齢者が自発的に家族や地域を超えたつながりを構築できる
ツールや制度を整備する必要があるのではないか?



「高齢者」という括り自体が、現代の日本社会では無化しつつあるとしても。
同じように現代では無化しつつある「主婦」が、1980年代の切り開いた地平は
おそらくこれからの「高齢者」にも広がっています。

【読書記録】日本型ポピュリズム

ここのところ大阪府の橋下府政、名古屋市の河村市政に関する報道などで、
ポピュリズム」という用語を耳にすることがあります。
とはいえよくわからないので、ゼミの先輩が参照されていた
『日本型ポピュリズム』(中公新書)という本を読んでみました。




日本型ポピュリズム
大嶽秀夫(著)
中公新書



○概要
本書では政治学ポピュリズム概念に則し、
ポピュリズムを「リーダーによる「エリート」と「普通の人々」といった
善悪二元論」の設定」と定義。
自民党派閥政治の末期という政治構造の変動期に生じた「加藤の乱」、
レーガン小泉純一郎の比較、報道系ワイドショーと田中眞紀子の関係等の
検証を通じて、日本のポピュリズムの型を提示しています。



とりわけ本書で強調されているのは、
日本のポピュリズム(ないしは「ポピュリスト政治家」に対する有権者の支持)
の盛りあがりとマスメディアの強い相互作用



1980年代後半より登場した
ニュースステーション」(テレビ朝日・朝日系)や「NEWS23」(TBS・毎日系)といった
報道系ワイドショーは、政治家、久米宏筑紫哲也といったキャスター、
各分野の専門家の起用を通じて、視聴者(有権者)に政治や経済トピックに存在する
「前後の文脈」を提示しました。
視聴者側には政治や経済を構造的に把握したいというニーズも生まれつつあったため
報道系ワイドショーは以降、マスメディアに定着していく。



著者はマスメディアにおいて従来「カネにならない」と考えられていた
政治・経済の報道番組がひろく視聴者に受け入れられたこと、
また報道系ワイドショーが、従来の新聞やNHK報道の
「断片的」で「内輪的」な政治経済報道の限界を打ち破った功績を認めています。



しかし著者は報道系ワイドショー、またその「成功」に学んだ大新聞といった
日本のマスメディアが政治を娯楽化してみる傾向を助長し、
政治の劇場化を生んでしまったという問題点を指摘。
日本社会にはマスメディアが増幅させるポピュリズムの登場に抵抗する力が
決定的に不足しているのが現状(本書執筆時点の2003年)であると述べています。



○考察―ポピュリズム概念と大衆論―
著者のポピュリズム概念
「リーダーによる「エリート」と「普通の人々」といった「善悪二元論」の設定」
を大衆論とからめて検証していきたいと思います。



ポピュリズムと大衆】
(マスメディアやポピュリスト政治家の言説にみられる)
ポピュリズムの根幹戦略である善悪二元論は、
論じる者が危険性や問題を訴え、批判し続けることでかえって、
善悪二元論程度の単純な構図に踊らされてしまう愚かな有権者=大衆」
というメッセージの受け手の脆弱なイメージを強調してしまう場合があります。



また、善悪二元論批判は論者に、
「自分はそういった愚かな大衆とは違う」という
心理的優越を注入してしまうこともあります。
このような排他的理解こそ大衆的な心理であるともいえるのですが、
この罠にはこれまで学者から労働者まで全ての人間がはまってきており、
本書の著者も例外ではないようにも思います。



上記のような罠は
「大衆=非自律的で集団や権威に同調的な、流されやすい愚かなものたち」
という理解を意識的、無意識的に前提としていることによって生じてしまうようです。
このような大衆理解の源流は、オルテガ・イ・ガセットという哲学者が
1930年に出版した『大衆の反逆』における「大衆」の定義、
「自分を「すべての人」と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、
自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人びと」
(『大衆の反逆』、白水社、p63)
に依っています。



オルテガの定義は、その後各国で吹き荒れたファシズムを鑑みれば
非常に示唆的であり、『大衆の反逆』が今なお名著と称されるのも頷けます。
とはいえ現代に彼の大衆理解をそのまま援用することはできるのでしょうか。



第二次大戦後のマスメディア研究は
(とりわけ1970年代以降のイギリス/カルチュラル・スタディーズ発の)
マスメディアの受け手である大衆が、リーダー(権威者)のメッセージを
自律的に解釈するメカニズムを提示しています。
人々は人々同士の (たとえば、家族や友人と) 議論や折衝を通じて、
リーダー(権威者)のメッセージを批判的にとらえていく。
※もちろんこれらの研究では、大衆は完全に自律的で
リベラルな解釈ができるわけではなく、
マスメディアのメッセージには一定の誘導力が働く点も指摘されています。



つまり「大衆」の社会関係の文脈次第で、
リーダー(権威者)のメッセージの受容の程度が変わってくる可能性がある。
とするなら、「社会関係の文脈」は「社会関係」をどの範囲・規模で捉えるかという
問いが生じてきます。
たとえば橋下府政や河村市政を「ポピュリズム」と解釈するなら
大阪府名古屋市といった政治制度の範囲内の社会関係、、
youtube」や「twitter」で政治的見解を述べる政治家を「ポピュリスト」とするなら
youtube」や「twitter」(を含む情報空間)におけるユーザー間の社会関係、
においてメッセージがどのように受容され、議論されているのかを検証する必要がある。



マスメディア研究のほかにも、第二次世界大戦後のアカデミズムでは
数多くの大衆(社会)論を確認することができます。
その多くが、オルテガの理論を敷衍・発展させたものであり、
「大衆=非自律的で集団や権威に同調的な、流されやすい愚かなものたち」
と単純に定義していません。



現代では上記の例をあげるまでもなく、人々のつながりは多様化しています。
従って大衆論とポピュリズム概念を繋ぐとするならば、
「日本型ポピュリズム」から
地域格差、経済格差、教育格差、情報格差、世代格差によって分断された
現代大衆の社会関係を、それぞれ捕捉するような
分節化したポピュリズム概念
(「地域リーダー型ポピュリズム」/「弱者救済型ポピュリズム」など)
を考えるべきなのかもしれません。
それは「ポピュリズムが機能する範囲・規模はどれぐらいか」
という問いにつながります。



どうやら「ポピュリズム」、
陥穽の多い、手ごわい言葉のようです。

【読書記録】家族を容れるハコ 家族を超えるハコ


家族を容れるハコ 家族を超えるハコ
上野千鶴子(著)
平凡社



上野千鶴子さんといえば日本を代表するフェミニストですが、
近年はライフワークの女性・家族研究を軸に、
ナショナリズム研究、ネットワーク研究と仕事の幅を拡げていらっしゃいます。
また領域横断的に、他の社会学者、非社会学の研究者、
企業などとコラボレーションする志向も強い。
本書もその成果の一つです。



社会学者・上野千鶴子山本理顕隈研吾といった
第一線で活躍する建築家のあいだで交わされる刺激的な議論。
社会学と建築・都市工学をつなぐ稀有な試みといえるでしょう。
※本書も本稿も、読まれて気分を悪くされる方もいるかもしれません。
社会学の研究者はこういうことを考えたり言ったりします。どうかご海容ください。



○家族を容れるハコ?
「家族を容れるハコ 家族を超えるハコ」という
特異なタイトル。一体何を意味しているのでしょうか。



高度経済成長。
その背景には様々な要因が指摘されますが、その一つに
戦後直後、戦地から引き揚げてきた農家の二男・三男(非跡取り)といった
農村の余剰労働力が、成長産業の第二次産業(重厚長大産業)に
効果的に流れこんだ(配分された)点が挙げられます。



つまり、高度経済成長期には、
農村から都市への大量の人口流入といった大きな変動があったのです。
ところが戦後当時、その大量の人口を抱えるだけのインフラが
都市にはなかった。そこで、都市の住宅不足解消という重要な命題を背負ったのが
日本住宅公団都道府県が供給する集合住宅(いわゆる「団地」)でした。



こういった集合住宅はそれほどゆとりのある空間ではなく、
ほとんどが同じような意匠をした「ハコ」のようなものでした。
また居住していたのは若い夫婦や、若い夫婦と幼い子供の家族、
言い換えれば、これまでの祖父母がいる「拡大家族」(二世帯・三世帯)から
切り離された「核家族」。
つまりタイトルの「ハコ」は集合住宅、「家族」は「核家族」を指しているのです。



○「51C型」と「nLDK」
さて日本の住宅、とりわけ集合住宅の「間取り」は
「nLDK」というプランが大勢をしめています。
このプランは、日本住宅公団が1951年に設計し、
その後多くの公団住宅・民間集合住宅のあいだに広まった
「51C型」という住宅の標準規格と、その成立を同期していたと言われています。



「51C型」という規格は、従来の農村家屋とは違い、
「食寝分離」「生産と消費の分離」という原理を基本としていました。
「食寝分離」は食事も就寝も大広間のような同じ空間で
家族皆がするという住み方から、食事は食卓、就寝とセックスは寝室と
用途別に用意された空間でするという住み方への転換。
※従来の農家では、若夫婦が舅姑の視線をくぐってセックスをするのが
大変だったそうです。
「生産と消費の分離」は、農作業などの生産に必要なスペースが
確保されていた住宅空間から、「住む」「食事する」「寝る」といった
消費に特化した住宅空間への移行。
このように「51C型」は、戦後の新しい住み方を思想的に体現するモデルだったのです。



一方「nLDK」というモデル。
周知のとおりnは個室の数、
LDKは「リビング・ダイニング・キッチン」(食事と家族交流のスペース)を指します。
このnは「家族の人数−1」で算出されることが多い。
つまり、家族のなかで一人は部屋をあてがわれない者が出ざるをえないということです。
上野は日本の戦後過程でその役回りを演じたのは「お母さん」(専業主婦)。
であったと言います。「お母さん」だけの居場所はなかった。
お母さんがいれるのは「夫婦の寝室」と「リビング・ダイニング・キッチン」だった。



「お父さん」は家では「飯」「風呂」「寝る(セックス)」だけをして
仕事は外で。「お母さん」は家で家事と育児、セックスを「専業」。
「子ども」は子ども部屋を与えられて兄弟は同居。外では遊びと勉強。
上野は現実はさておき、理念としてはこのようなモデルが、
日本の戦後の「標準家庭」であり、その成立に「51C型」「nLDK」が
与えた影響力を指摘します。



※しかし、「51C型」の生みの親である建築家の鈴木成文さんは、
「51C型」と「nLDK」は理念のうえで似て非なるものと主張しています。
詳しくは『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』(平凡社)にて。



○近代家族の変化
しかし、80年代頃顕著に、核家族は大きな曲がり角を迎えます。
高齢化と少子化の進展といった大きな人口変動傾向の変化。
高学歴化に伴う女性の労働市場への参入といった就労構造の変化。
成長した子供の流出、離婚、死別などの生活の変化。
このような変化は、「ひとり親家庭」「独居老人」
DINKS」(double income with no kids:子どもを持たない夫婦共働き家庭)
といった「非標準家庭」の割合が、標準家庭の割合を上回るように
なってきます。



また、成長を続ける都市の外食産業と性産業の影響もあり
家庭の「食事」「セックス」が相対的に家の外へ流出していきます。
言い換えれば、必ずしも家だけで食事やセックスをする必要は
無くなっていった。不倫は当たり前に。
夫婦のセックスレスから「夫婦別寝室」も当たり前に。
こうして家は次第に高齢化に伴い深刻さを増す「介護」と
「育児」の空間として特化されていきます。



上野はこうした家族や人々の「住み方と意識の変化」と
時代の変化に伴う人々の住宅ニーズ(介護や育児)に
依然として「51C型」「nLDK」を生み出し続ける建築家が
新しいモデルを提示できていないと、その「怠慢」を指摘しています。



一方、山本や隈といった建築家も、上野の主張に反論しつつも、
住宅に住む者による「空間の使われ方」にあまり関心を持たなかったこと
建築家がこれまで自らの理想に基づく空間を、
公団・行政やデベロッパー(住宅のクライアント)のみとの折衝で
生み出し続け、住民が住宅に求めるニーズを直接聞く機会を失っていたこと
(建築家の「作家主義」の弊害)を認めています。
そして児童虐待や老人虐待といった家庭内で噴出しがちな問題や、
住宅を生産の場として使いたいというニーズに応える
非常に興味深い知見や住宅プランを提示しています。



○考察―家族の社会化をめぐる是非―
論点と知見が豊富な本です。一点だけ触れておきます。



上野は上記のような家族の変化に、
個人の家族や会社からの自立という肯定的な側面を見出しています。
また、(本書が上梓された2002年以降も)変化は続き、
いずれシングルを基本とした人生と社会システムの構築が必要となると
述べています。(『おひとりさまの老後』などを参照)



そして個人は家族(血縁)や地域(地縁)、会社(社縁)に縛られず
気の合う人にどんどんアクセスし(選択縁)、
介護や育児を家族で囲い込まず「他人」にどんどん開くことで、
家族の多様化・社会化を提唱しています。



こうした上野の主張は、自由で自立的、非依存的な個人を想定している
「強者の論理」ではないかという批判がありそうです。
実際には上野は本書で、「依存的な他者をどうケアするか」という問題と
真摯に向き合った結果、このような主張をしています。
この批判をどうとらえるか。



私は上野の考えに惹かれる一方、
このような考え方に「強者の論理」と反応する方の気持ちもわかるような気がします。
なぜなら、低所得者、老人や子供、障害者といった「社会的弱者」のなかには、
選択縁を拡げて生活のリスクヘッジをする能力と能力開発の機会に
恵まれないからこそ、弱者の立場に置かれている人も多いと思うから。



またそういった人たちは、家族(血縁)や地域(地縁)、会社(社縁)といった
従来生活リスクをヘッジしてきたものへのアクセス回路を断たれているからこそ
弱者として生きざるをえない側面もあると思うから。
(とりわけ「生活保護の申請もできずに、姉妹・親子で飢死」といった
ニュースを耳にするたびそう感じます)



日本の福祉は介護保険制度や生活保護制度を見ればわかるように
「申告(申請)主義」をとっています。
つまりセーフティーネットを求める者のみが恩恵にあずかれるシステムが
基本となっているのです。
このようなシステムのもとでは、「強いられたおひとりさま」を
救済できないという現実。



もちろん、上記の様々な縁にアクセスする能力と余地を有しながら
「自分で主体的に選択して」孤独な生き方をする人もいるでしょう。
そのような人の生は、たとえ世間が「孤独死」と言いたてても
私たちは尊重するべきでしょう。孤独に死ぬこと自体はある意味真理ですし
悪いことでもありません。
しかし「親に頼りたくても頼れない」「ご近所に窮状を言えない」
「行政に相談できない」で飢えや孤独にさらされる人たちが、
そうならざるをえない社会関係の齟齬や心理的な障壁がなぜ生じるかは、
セーフティネットの整備と合わせて追究しなければならないのではないか。



「強者の論理」に対抗し、家族や地域、行政や国家の重要性を唱える
「弱者の守護者」は常に存在します。
しかし彼らは「家族を復権せよ」「地域みな仲良くせよ」
「国家を重んぜよ」と唱えることは熱心だが、
社会の現実に即した「弱者」を護る効果的で説得力のあるメニューを
提案できていない側面がありはしないか。
それが現状なら、たいそう不幸なことではないか。
規範は規範を訴えるだけでは変わろうはずもありません。



そもそも、家族や地域、行政や国家(法制度)を拘束的であると感じ、
「行きづらさ」を感じている人間や集団が、よりよい生を追求する自由は
たとえ彼らが「強者」であっても、強者であるという理由だけで
阻害されるべきではありません。



上野が論じるように、今も幾多の家族が解体し続けていて
食事やセックスだけではなく、「介護」や「育児」を抱え込むことも
できなくなっているのは現実です。
だからこそ「介護保険」や「子ども手当」が政策として登場したのでしょう。



重要なのは介護や育児というある種の負荷に対して、その程度を
現実的に見積もり、家族、地域社会、行政/国家、選択的なつながり(NPOなど)
という集団にどう配分していくかを考えること。
「家族の社会化」という方向自体は、その一つの答えではあるように思います。



○要点―建築家と社会学者のちがい―
「住宅」という空間の創造を命題とする建築家と
人々によるその空間の使い方を問う社会学者。
建築家は、理念に基づく空間の創出によって、
人々の生活や規範(こうすべきだという考え)をも生み出すことができると考えます。
一方社会学者は、人々の規範と実践(空間の使い方)には常にギャップがあり、
人々は実践に合わせて空間を改変することができると考えます。
(具体的な事例では、「nLDK」のLDKで食事をせず、
nでそれぞれ一人ずつ分かれて食事をする家族)



図式化すれば、



建築家:空間→規範→実践
社会学者:実践→空間→規範


と、それぞれの創出原理をまったく違う方向で考えているということが言えます。



これは、どちらの考え方が正しいということではありません。
新しい空間が人々の規範や実践に影響を与えるということは
上野自身が認めていますし、(「nLDK」「51C」が家族関係を変えた)
実践(人々の現実・本音)に沿った空間が改変にも限界があること、
また「実践のとおりに空間を生み出してしまっていいのか」という
倫理的な問いもありましょう。



とはいえ重要なのは本書において



①空間は人々の社会関係に影響を与えるひとつのツールにすぎないという点
②人々は物理的空間を超えて社会関係を改変・構築することができるという点
(「情報空間」とその装置を使った「つながり」構築は現代人の日常です)
③空間の創出には(建築家だけではなく)実に様々な人々の利害が反映されている
という点、言い換えれば人々の社会関係が空間を創出しているという
側面もあるという点



が浮かび上がっているということです。



これらの指摘は何だか当たり前のようにも思います。
しかし「たかが建築」という現実を、建築に関わる全ての人々が認めてこそ、
その次に控える「されど建築」という建築や都市空間の未来を
わたしたちは展望しうるのかもしれません。



皆さんはいまどんな住宅空間を生きていて、
どんな住宅空間を生きたいでしょうか。

【地域】マクドナルドと地域社会

あけましておめでとうございます。
年明けらしくありませんが、今回はマクドナルドの話を。



マクドナルドに行くといつも思うことがあります。
それは、マクドナルドが地域社会のようすを非常によく
反映しているということ。



たとえば、私がよく行くマクドナルド。
この店舗は名古屋市の東部、国道沿いにあります。
国道の裏には高校があり、その周りを住宅街が囲んでいる。



昼間、まず目立つのは小さい子供連れの若いお母さんたちです。
お母さんたちはここで、保育園や幼稚園、生活に関する情報交換をしている様子。
またこの店舗では「ママ会」のようなものが定期的に開かれていて、
店では予約の受付などもしているそう。
子どもは遊戯スペースだけでなく店中を駆け回っています。
嬌声は止むことがない。



学生。部活帰りの高校生グループは、
テレビや恋愛の話題で盛り上がっていて、こちらも賑やか。



また、近所に住んでいると思われるお年寄りもちらほら。
いつも読書をしたり新聞を読んだりされています。



夜になると少し様子が変わります。
単身者とみられる若いサラリーマンは、退社後にもかかわらず
かかってくる仕事の電話を受けながらハンバーガーをかっこんでいる。
大学生らしきカップルはサンダル履きのラフな格好でくつろいでいる。
そして受験生。どのテーブルも参考書が山積みです。



この店舗のようなマクドナルドは日本全国にあるでしょう。
都市中心部の店舗や、もっと郊外のショッピングセンター内にある店舗などは、
少し様子は違うと思いますが、その地域にいるであろう様々な属性の住民を
だいたい捕捉しているという点は共通しているはず。



一民間企業にすぎないマクドナルドが、地域の多様な住民をひきつけ
地域の縮図のような場になっている。
この現象は、どのように説明できるのでしょうか。



マクドナルドは商品・サービスが安いから
お金のない若者や学生も含め、地域のいろいろな住民が来ることができる」
という説明はもっともらしいですが、
少し説明が足りないような気がします。
なぜなら、マクドナルドのようにお金を取らず、
無料でサービスを受けられる図書館などの公共施設があるにもかかわらず
こういった施設よりマクドナルドの方が、
多様な住民をひきつけているように思えるから。



とはいえ、マクドナルドを
図書館などの公共施設と比較して、
その共通点や違いを考えてみることで、説明を深化できるかもしれない。
たしかにマクドナルドは子どもやお母さんにとっては児童館、
お年寄りにとっては公民館、
学生や受験生にとっては図書館のように使われています。
「公共施設のようなもの」と言えなくもない…



図書館のような公共施設は、政治学社会学では
「公共財」(public goods)として定義されています。
「公共財」は道路や水道などのインフラから、
教育制度や法律などのかたちのないものまでが幅広くあてはまるのですが、
これらには共通の特徴があります。



①大量生産・統一規格
公共財は、沢山のひとが大量に、ある一定の期間使用する
ことを想定して設計されます。
そのため設計には膨大なコストがかかるため、
往々にしてスケールメリットを活かしてつくられることになります。



②非排除性
公共財というものは、管理者(行政など)が
お金がないなどの理由をつけて、特定の利用者にたいして
「使うな」と言うことができません。
(お金がない人は、道路を歩いてはいけないはずないですよね)
つまり公共財には、どんな人でもアクセスする権利があります。



以上の公共財の特徴をみてみると、
何だかマクドナルドにも当てはまるように思えます。
何といってもマクドナルドは大概どの国・地方にでもあるし、
たいてい同じ商品・サービス・店舗の規格です。(大量生産・統一規格)



そして上述のようにいろいろな人がいる。
風体のあやしい人やぐっすり寝ている人がいても見逃されている感もあります。
(非排除性)
もちろん、お金がまったくない人は入れないので、
公共施設と全く同じではないですが、
100円あればだれでも、どれだけでも居続けられるという点では
きわめてハードルが低い。



このように考えると、マクドナルドは地域住民にとって
「公共財」として扱われているということが言えるのではないか。
言い換えればマクドナルドは「公共財」である公共施設と同等か
それ以上の機能を、地域社会において有している。



とはいえ私はマクドナルドが地域住民共同のプラットフォームとなり、
新しい公共性を育むモデルとなるなどと言いたいわけではありません。
民間企業である以上、利益が上らなければ当然、
彼らは地域から撤退しますし、現に都市部の店舗の整理は着々と進んでいると聞きます。
こういった摂理を考えれば、マクドナルドは地域に定着する場ではなく
地域のあいだを市場をもとめて浮遊する一介のプレーヤーにすぎないと
認識するのが妥当でしょう。



しかし地域の住民はたしかに、(店舗があるかぎりは)
地域の公共財である公共施設を使うように
それぞれの思惑でマクドナルドを活用し、生活の一部に組み込んでいる。
そこには地域に応じた特徴も見られますし、
どうやら公共性のようなものも存在している。



反グローバル運動や、アンチ・マクドナルド派が
スルーしているのはこの実態ではないか。
もちろん彼らの主張も重要です。
マクドナルドの営業戦略のかげで、労働現場や生産現場
グローバルな構造に隠され、被害をこうむっている実態はあるでしょう。
また「地域の食生活の多様性を損なう」という主張も、
さもありなんと思います。
(とはいえ私はマクドナルドも所詮、人々の食生活の一部に過ぎないと
感じざるをえません)



しかしマクドナルドを批判するのであれば、
彼らは当然世界各国の、それぞれの地域において
マクドナルドが果たしている機能に思いを馳せて
場合によっては代替するモデルを提示してもよいのではないでしょうか。



他の民間企業とは違う役割を、マクドナルドが地域で演じているのは
おそらく間違いない。
とりわけ先進国の地域社会においては、功の要素も目立つ
マクドナルドを、私たちは冷静に評価しなくてはなりません。

【地域】伝統仏教の衰退と上方落語の復興

先日、亡き祖母の四十九日法要がありました。
そこでの出来事から。



祖母の家は岐阜市の郊外にあるのですが、
当地域では葬儀・告別式こそ葬儀会社の会場を使うものの、
以降の法要は自宅に僧侶を招いてとりおこなう家庭が多いそうです。



わたしたちのケースも例外ではなく、
家にお坊さんを呼びます。
宗旨は浄土真宗本願寺派
今回も「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の浄土三部経
蓮如上人の「御文章」、法話と続き、法要はお開きとなりました。



兵庫県山間部の真宗寺院のお生まれという若いお坊さんの
法話はわかりやすく、興味深いもの。
たとえば、「親指は小指の方を向いているが、子指は親指のほうを向いておらず
まっすぐ前に向いている。
このように子(衆生)は世俗の論理にふりまわされ生きるのに懸命で、
阿弥陀様の存在に気づいていないが、そんな者どもも阿弥陀様は
あたたかく見守っているのだよ」というネタ。
「ああ、そうなのかな」と言いたくなるような話を聴くことができました。
(それらのネタをノートにまとめていらっしゃったのは意外でしたが)



このお坊さんのように、浄土真宗の僧侶は昔から、
無学の者にもわかるように噛み砕いて、
釈尊のことばを大衆に向けて語りかけてきました。
彼らには説法を非常に重視する伝統があります。
その伝統は現代では、報恩講に代表される大規模な法話や講演、
出版(明治〜昭和では暁烏早、現代では釈徹宗さんなど。本願寺出版社なども。)
というかたちで引き継がれているようです。



ところが、昨今は浄土真宗を含む伝統仏教の衰退や
存在感の低下が叫ばれて久しい。
「お寺の子がお寺を継ぐ」世襲にともなう人材の固定化、
教団組織の硬直性、檀家システムへの依存、
戒をまもらぬ僧侶によって与えられる戒名の問題などは
よく耳にするところです。
なかでも「僧侶派遣会社化」、
つまり僧侶が葬儀にしか関わらず、
人々の日常的な心の悩みに向き合わないばかりか、
その葬儀の運営すら葬儀会社に頼る現状への批判は、
教団内外で強い様子。



これらの批判は、伝統仏教内部の怠慢から提起されるものばかりでないだけに、
現代のお坊さんは気の毒なところもあります。
都市化→核家化に伴うイエの分断、
葬式講を展開してきた地域社会の弱体化などが大きく
伝統仏教の衰退に関わっているのは間違いないでしょう。



とはいえその社会構造の変動に、伝統仏教が対応できなかった。
地域社会が解体していくなかで檀家システムに替わる
信徒の組織化システムを構築できなかったこと。
(創価学会など新宗教は、信徒一人ひとりまで行き届いた綿密な組織を構築し
伝統仏教の隙を突いた)
そして寺院空間がお坊さんの「家庭」に特化してしまい、
地域住民の日常的な信仰表現の場としての寺院が公共的な性格を失ってしまったこと。
突き詰めていえば、伝統仏教が日常的にコンテンツを提供するための
「ネットワーク」や「場」を失ってしまったことは、
致命的だったのではないでしょうか。



伝統仏教法話や説教、経典のコンテンツをブラッシュアップしても、
それを効果的に提供するネットワークや、
信徒が日常的にコンテンツに触れることができる「場」が限られていれば
かれらの存在感は失われていくでしょう。



ところで、僧侶の辻説法から生まれたと言われる上方落語は戦後、
庶民の娯楽が多様化するとともに、大阪の寄席が次々と消滅、
噺家が数名というところまで衰退しました。
そこで、亡き名人達は懸命な努力によって弟子を育てながら、
教会(島之内寄席)やホール(トリイホールほか)、
商店街の個人経営店など地域に働きかけ、
噺家が落語をする「場所」を守った。
それが現代の「天満天神繁昌亭」という定席の復活、
「落語ブーム」につながっています。



現代の日本はもはや、上方落語が奮闘していた時代とは異なり、
多大なコストをかけずともネットワークや場を整備する環境が整っています。
伝統仏教がいま取り組む課題は、はっきりしているのです。

【読書記録】希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想―

文体が軽妙で読みやすい。見習いたい…
テーマは共同体論と若者論。社会学の得意分野です。
本稿ではピースボートの活動の様子には触れませんでしたが、
ルポタージュとしても楽しめます。



希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想―
古市憲寿本田由紀(解説と反論)
光文社新書



ピースボート
街中で「地球一周99万円」と大字されたポスターの、あれです。
先日、社民党を離党した衆議院議員辻元清美さん
(「ソーリ!ソーリ!!」「私、へこたれへん!!」の人)
が学生時代に立ち上げたNGO団体で、名称やコピーの通り、
難民キャンプや途上国も含め世界中を船で巡ることを通じて、
世界の平和や国際問題について考えよう、という趣旨のもとで活動しています。



そんな一見政治色(左翼色)の強いピースボートですが、
安い金額で世界一周ができるということもあり、
学生など若者のあいだでは大変な人気です。
本書では、そんなピースボートに集った若者が、
船内での様々な企画(事件?)や、仲間同士の交流を繰り広げていく様子が、
自ら若者のひとりとしてピースボートに乗り込んだ筆者の観察から
生き生きと描かれています。
(著者は社会学の研究者なので、当然中立的、というか「斜め」目線ですが…)



若者は同じ船の仲間とのやりとりを通じて、
どのような心境の変化を遂げていくのか。
そして現代の若者の交流、彼らがつくる「つながり」にひそむ可能性と限界は。



○要約
著者の記述にならい、若者と共同体の現状と、
問題点について明記しておきましょう。
(※本書では「共同体」ということばを、家族や会社のような
「人と人とのつながりがある場」の意味で使用しています。
なお、国家も共同体の一種です。)



◇現代の若者
一昔前(90年代のバブル崩壊ぐらい)まで、
日本の若者は「いい学校」→「いい会社」→「いい人生」
といった右肩あがりの人生設計を信じて生きていけたと言われています。



一生懸命努力して勉強して、いい会社に入って一生懸命頑張れば、
給料もどんどん上がっていき、いい暮らしができる。
こんな価値観が、一昔前の若者の生きるモチベーションになっていました。
(「メリトクラシー」(業績主義)といいます。)



しかし現在、こんな価値観を臆面もなく信じている人がどこにいるでしょうか。
(といえば角が立ちますが)
現代では社会で「成功」するうえで(何が「成功」かはさておき)
学歴などなんの当てにもなりませんし、
頑張って働いていても突然クビを切られたりする。
しかも、その「頑張る」基準や社会の組織で評価される基準が至極曖昧で、
「コミュニケーション力」「人間力」など、
人によってどうとでもとれるものになっている。



あまつさえ、「頑張れば夢は叶う!!」とか
「やればできる!!」とかいう暑苦しいことばや、
そう若者を煽る人たち(企業や教育機関)は跋扈している。



そんな他社による評価の基準があいまいで、
できるかどうかわからない(むしろできない可能性が大きい)、
キラキラした夢に煽られ身動きがとれなくなる者。
終わりなき自分探しに駆り立てられる者。
そんな若者を著者は「希望難民」と呼びます。



◇現代の共同体(家族・会社・地域/人と人とのつながり)
一昔前(1970年代ごろ)まで、日本人の多くには生活の場として「家族」、
働く場所としての「会社」、余暇を過ごす場としての「地域」
という確たる居場所が用意されていました。
そういった「居場所=共同体」は、私たちにとって
①経済的基盤
②自己承認の基盤
(「わたし」がほかでもないわたしと他者から認められている場所)
となっていました。



ところが現代は、昨今の児童虐待、失踪老人、孤独死などの問題に
象徴されるように、家族のつながりは確実に形骸化しつつあります。
正規雇用の隆盛とともに、終身雇用は半ば伝説化しつつありますし、
地域社会も人口減少や産業の衰退、膨らむ行政コストの影響を受け
どこも青色吐息です。
つまり、かつて栄えた共同体は解体しつつあり、
現代を生きる私たち皆がアクセスできる基盤としての地位を
失っているのです。
(もちろん、今も家族と仲良く、友人も多い幸せな人はいますが。)



これらの共同体に代わり、現代の人文社会科学の研究者は
「共同体」の復権を主張しています。
といっても、一昔前の「良かったころ」の家族や地域社会には
戻しようもありません。(復活を声高に叫んだり、懐かしがったりはできますが)
彼らは「趣味・サブカルチャーのつながり(コミケなど)」や
「友人どうしのつながり(SNSなど)」
などの、ゆるやかにつながる共同体の可能性を模索している。



さきほど挙げた共同体の基盤の話でいうと、
ゆるやかにつながる共同体が、若者にとって汎用的な経済的基盤となりうるか、
という点は、今のところあまり期待できないかもしれません。
(ホームシェアリングや音楽・映像などのクリエイター集団は例として
挙げられますが)
むしろ本書の文脈で重要なのは「自己承認」のほう。
上記のようなゆるやかなつながりは、若者にとって
「自分は一人じゃない」という安心できる場になりうるか、という問題です。



○要点
上記を鑑み、本書の指摘に沿ってピースボートが若者にとってどのような意味を
もっているのかを追っていきましょう。



ピースボートに乗る前の若者は、「世界平和について考えたい
/難民問題について知りたい(セカイ系)」
「それまでの生活を抜け出したい(自分探し系)」
「海外のいろいろなところに行きたい(観光系)」
「友達がほしい・ワイワイやりたい(文化祭系)」
など様々な理想や動機を持っているといいます。



ところが多くの若者はピースボートから降りてしまうと
次第に当初抱いていた理想や動機を見失ってしまいます。その理由は。



ピースボートは、寄港地にいるより船に乗っている時間のほうが
圧倒的に長い。若者たちはその閉鎖的な空間でお互いともだちとなり、
非常に濃密なコミュニケーションをかわします。
彼らの一部は船を降りた後もともだち同士で定期的にあつまるなど、
交流を続けていく。ピースボートをきっかけに彼らは
「ゆるやかなつながり」を得る。



そこは、「わたしがわたしのままでまったりいられる居場所」。
理想や夢が介在する余地はない。
なぜなら、そもそも彼らは「ピースボート」の経験を共有しているだけで
お互いに利害関係があったり、政治意識を共有していたりするわけでは
なかったのだから。



そして、ピースボートに乗った多くの若者は、
ともだちやつながりというまったりとした「承認の共同体」を得て、
日常へ戻っていく。
「希望難民」たちは航海の果てに新天地を発見する。
当初の理想や夢と引き換えに。



著者はそんな若者の夢を「あきらめさせる」
ピースボートを「よかったね」と肯定的に評価します。
あてどない夢に躍らせ続けられるぐらいなら、と。



○考察
本書の主張に対しては、様々な反論・批判が寄せられるでしょう。
…というやいなや、本書の中ですでに著者を指導した本田由紀先生の
批判が挙げられています。以下の通り。



①若者が自己承認の得られる、まったりした「ゆるやかなつながり」
は果たして持続可能性があるのか。



②不利な立場に置かれている若者が「ゆるやかなつながり」のなかで
まったりと生きることで、彼ら自身がおかれている不条理な社会構造が
温存されるのではないか。



①について。
著者の指摘する「ゆるやかなつながり」は、自己承認は得られるけれども
お金が稼げるわけでもなければ、誰かが経済的に自分を援助してくれる
わけでもない。
つまり一度自分が大病にかかってしまったり、職場から解雇されてしまったり
すれば、そんな「ゆるやかなつながり」にアクセスすることもできなく
なるのではないか、ということ。



確かに、現代でも本当に困窮している人はつながる余裕(資源)や技術
すらないから困窮しているわけですし、それを考えれば
今現在「ゆるやかにつながれている」若者は恵まれているのかもしれない。
君らもうかうかしていると飯すら食えなくなるよ、という厳しい指摘。



②について。
お金がなくてもアイデンティティの危機に陥ることのない
「ゆるやかなつながり」の中で私たちは、
ある程度快適に過ごせるのかもしれませんが、
そこから生まれる言動が、社会構造を変える可能性を持つのか?という指摘。
「ゆるやかなつながり」は、若者にとって社会の不条理から
目を逸らすものにすぎないのではないか。



私も大枠では上記の「暑苦しい」本田先生の指摘に賛成です。
「社会に関わるエリート(社会を動かしたいと思う人)」と
「まったりとしたつながりのなかで生きる人」が分断される社会、
ある意味での階級社会化を認めてしまうことが良いとは思えません。



階級社会そのものは善でも悪でもないですが
階級社会には階級社会に生きる為政者や市民にふさわしい
ふるまいが求められます。
そして階級社会には階級社会における我々の生を支える
総合的なシステム(行政/企業/市民組織に代表される)も必要です。
現代日本社会のシステムが援用できるわけではなく、
システム更新には膨大なコストと時間がかかるでしょう。



これからの日本で、行政や企業、市民社会がその
「階級社会への移行コスト」を払おうとするはずがありません。
おそらく何もできずに時間がたち、その間に多くの社会的弱者が
見捨てられるのが落ちでしょう。



マルクスめいてきますが、私たち一人一人が政治的意識をもち、
「一介の市民」にならなければ、そこに待ち受けるのは
エリートの弱者に対するコントロールと排除です。
(階級社会と言われるイギリスの労働者階級は、
洗練された政治意識を有しています)
日本社会において市民意識なるものを育てる文化や制度は
まだまだ開発途上なのであって、
私たちはまずそのプログラムを確立させなければならない。
そして同時に今まさに社会の不条理に悩み困窮する人を、
少なくとも死なせないよう応急処置を施さなければならない。
本書の共同体構想のもとでは、本当に必要なことができないのです。



とはいえ、とかく共同体・コミュニティに希望を見出す議論が多い中、



共同体の機能を「自己承認機能」に限定し、
それ以上でもそれ以下でもない


と指摘した議論はこれまでになかったはず。



若者の生きづらさを考えれば「自己承認」は言うまでもなく重要で
本書は「自己承認」特化型の共同体をどのように創出していくか、
という技術論を誘発する可能性をもっています。



また本書のように共同体そのものの機能を問い直す議論は
まだまだ蓄積が必要であるはず。
(いまだに「共同体」は大昔の有名社会学者の定義が引用されることが多い)



私たちは本研究に続き、そろそろ共同体の再生を自己目的化することなく、
共同体で「なにができるか」「なにができないか」という
「共同体の機能」に関する議論を精緻化していく必要がある。
それはきっと、スリリングな仕事になるでしょう。

【読書記録】貧困の文化―メキシコの五つの家族―

人類学の古典です。
文庫で出版・邦訳されていますが、600ページ以上というボリューム、
主観や解釈を極力排しあらゆる情報を記述するというスタイルから
あまり広くお勧めできる本ではありません。
とはいえ、メキシコ及びラテン文化、貧困問題に興味のある方には是非。



貧困の文化
オスカー・ルイス
ちくま学芸文庫



貧困問題が近年とりざたされています。
「不況」「派遣切り」「非正規労働」「生活保護」…
これらの貧困の議論に付随するキーワードは、日本社会において貧困問題が
経済や雇用の問題、社会保障など制度の問題として理解されている証左でしょう。



ところが貧困問題を理解し、アプローチするためには
貧困層の人々の文化に迫っていかなければなりません。
なぜなら、文化は階層や地域社会、家族という人が生を営む大小の構造のなかで、
親から子へと再生産(受け継がれる)からです。
(例:「医者の子息は医学部に多く進む」「○○区の住民はガラが悪い」などと
人々がいつまでも語ること。※実態と同時に「語りつがれること」も重要)
このメカニズムは、経済や制度ほど普遍的な形式をもたない。
階層や地域社会、家族が多様であるから。
(また本稿ではあえて触れませんが、「貧困」の定義は学問の数だけ存在すると
いっても過言ではありません。「生存に必要な栄養が不足している」
「マイノリティが有する経済的・文化的・社会的資源が剥奪されている」など。)



本書の著者O・ルイスは、貧困には特有の形式をもつ文化が存在することを喝破し、
貧困のメカニズム解明に生涯関心を持ち続けた人類学者でした。



ルイスは「貧困の文化は、地域・国家を超えた普遍性をもつ」と認識していました。
日本にも、都市貧困層を扱う優れた研究がいくつか存在しますが、
まだまだ蓄積が足りない。
したがって貧困が顕在化しつつある現代日本社会に生きる私たちが、
本著作から学ぶことは多いでしょう。



○要約 ※参考:本書の舞台、メキシコシティについてはこちら。
本書では五つの家族が登場します。「村落→都市(メキシコシティ)に移住した家族」
「都市中心部の共同住宅に住む家族」「都市郊外に住む家族」「高所得の家族」…
それぞれが異なる家族形態、食事・衣服・住宅・信仰のスタイル、
金銭感覚、習慣etcを共有しています。
(もちろん家族のメンバーが皆、これらを共有しているわけではないですが)
本稿では、メキシコの貧困層に共通するいくつかのスタイルや習慣を紹介しましょう。



コントラバスゴ・システム
洗礼の際、受洗者(子ども)の親代わりをする儀礼的親(代母/代父という)が
立ち合うことで、洗礼以降子どもと代父・代母の間で一種の親子的関係が
成立するシステム。
また受洗者である子どもの親と代父・代母との間にも密接な関係が生まれ、
双方で「コンパードレ(女性なら、コマードレ)」と呼び合う。
子どもの経済的援助をコンパードレに期待するなど、経済的な扶助関係も生じる。


→コンパードレは近所の住民が指定されることが多いため、
メキシコ下層住民は血縁共同体と地縁共同体が密接に重なり合った強固な
親密圏を構築しているといえます。
信仰共同体のもとで疑似血縁関係が生じるというモデルは、ユニークである一方
世界に存在する拡大親族システムとの類似性もあり、比較研究によって
興味深い知見が得られそうです。



◇父(男性)と愛人
本書に登場する家族の長である父のほとんどが、
貧しいか豊かには関わらず愛人を持っている。
→父の経済的・社会的行動に干渉できない・するべきでないという
規範意識が妻や子に共有されていることも多いようです。
当然のようですが、愛人に対する妻や子の印象は総じて悪い。
とはいえそれは愛情に基づくというより、愛人に家の経済的資源が
流れてしまうことへの怒りに基づくものであるのかもしれない、と
ルイスは分析しています。



◇住生活(ベシンダー)
メキシコの下層住民が集住する共同住居。
一間〜二間の一階屋が一列ないし数列ならび、
共有の中庭に面している。(江戸時代の長屋、炭鉱住宅のようなイメージ?)
数世帯〜数百世帯が同じベシンダーに居住しているため、
住民の間には家族的な一体感がみられることが多い。
また、住民による自発的・非制度的な相互扶助システム
(例:タンダと呼ばれる無尽講のようなもの)【p105】が存在することもある。
一方で多くのベシンダーが慢性的な水不足と衛生設備の不備に悩まされている。



◇食生活
メキシコの下層住民はトルティーリャ
(とうもろこしの粉や小麦粉を練って薄く引き延ばしたもの、
トルティーリャに具を挟んだものがタコス)、チーレ(唐辛子)のソース、
フリホーレス(いんげん豆)の煮豆などを食べている。
アメリカ式にパンやハムエッグを食べているのは中流〜上流階層に限られるが、
コーヒーは下層住民も日常的に飲んでいる。
トルティーリャは家庭内で作られることが多いが、
小売りしているものを買う家庭もあり、下層住民間でも姿勢の相違がある。
(主食であるトルティーリャには、メキシコ住民にとって象徴的意味がある)



◇信仰生活
メキシコ下層住民のほとんどがカトリック信者といわれるが
教会に対してコミットしている者ばかりではない。
(特に家長は教会に対し批判的であることが多い。)
一方、グァダルーペ寺院(聖母マリアをまつる)や呪医にかかる者もおり、
彼らの宗教性が希薄であるということではまったくない。
また内縁婚(教会を介さない結婚)はメキシコ下層住民の間ではまったくの常識であり、
社会的にも問題とされていない。



五つの家族に共通した特徴としては
・家長(父)の特権的立場
・家事労働における女性の役割の大きさ
などが言えるのですが、本書の知見はもちろんこの程度に収まるものではない。



上記のような生活のトピックにたいして、家族のメンバーは
それぞれがはっきりした目的意識をもち、豊かな解釈をしています。
トピックにたいするメンバーの意識の相違、姿勢の差異が
家族間の争いなど事件につながることも多いようですが、
それはどの世界の、どの家族にもあてはまることです。



私たちは決して彼らが無知にとらわれ愚昧に安んじているのではなく、
日常に存在する無数の制約と折り合いをつけながら、
創造的に生きているということを認識すべきでしょう。



メキシコも含めて、無知で愚昧な者はどの世界にも存在します。
「児童労働はいけない。教育は子どもが豊かになるために必要だ。」
「信仰は貧しい者が精神安定のためにすがる非科学的行為だ。」
という空疎な言説を掲げる前に、私たちは彼らが何を必要とし、
何を奪われていると感じているのか、その声に耳を傾ける必要があります。



○考察
―ルイスの手法を現代日本社会の貧困研究に適用する―
ところで日本では近年、社会が分断されつつあることを指摘する議論や概念が
社会に提出され、注目を集めています。(「下流社会」や「プレカリアート」)
ところが、日本特有の「貧困の文化」なるものがはたして存在するのか、
といった問いは、おそらくまだ検証がなされていない。
そもそも貧困研究の手法も、開拓の余地があるというのが現状ではないでしょうか。



本書はメキシコや貧困層に関する知見だけではなく、
ルイスの用いた貧困研究の豊かな研究手法にも着目することができます。
メキシコと日本の違い、時代的変化などいくつかの留保はあるとはいえ、
ルイスが本書で用いた手法を、日本の貧困研究にあてはめて考察してみましょう。



◇貧困と地理/家族/社会集団―日本では?―
ルイスは本研究に先立ち調査対象者の選定を、
明らかに地理学的手法を用いて行っています。
つまり、貧困層が集住する地区や共同住居(ベシンダー)にアクセスしている。
その上で、本書でルイスが名言しているように、小共同体である家族に
研究対象の範囲を限定しています。



ところが、多くの論者が指摘するところではありますが、
日本において貧困(相対的/絶対的)は、地理的に現れる(スラムなど)
ことは少なく、地理的に分散してあらわれる、
そしてその主体は、社会的に孤立していることが多い。
(ひとり親、ホームレス、独居老人etc)。
つまり個人が帰属することで、貧困リスクをヘッジできる社会集団
(家族や会社)との距離(物理的・精神的)が、貧困状況を規定している。



ルイスは本著作で、貧困研究の単位として家族が有効であることを証明していますが、
家族と切り離されているから「こそ」貧困に陥る日本の貧困層に対しては
ルイスと同様の手を用いるわけにはいかないでしょう。



ただし、「家族のメンバーそれぞれの目線から、家族に共通するトピックや事件を
語らせる」という「羅生門的手法」については、
「家族」をほかの集団におきかえることを条件に、大いに活用することができそうです。



上記を鑑みると日本では、ルイスの方法ではなく、
社会的に孤立しがちな(貧困リスクの高い)社会的属性をもつ集団に
アプローチをすればよいように思えます。
ところが、ここで注意すべきは、
貧困研究のつもりが社会集団の研究に転化してしまう危険性です。



※つまり「貧困層に特有な文化」が割り出せず、「シングルマザーの文化」
「ホームレスの文化」など個別の社会集団のメカニズムが見えてくるにとどまる。
もちろん、これだけで十分意味のある仕事です。
ただ、特定の社会集団に対するステレオタイプの再生産に
つながってしまう危険性もあるでしょう。



そこで、貧困リスクの高い複数の属性を有する層それぞれを比較し、
(例:独居者Aさん/シングルマザーBさん/…)
その複数属性の間に存在する共通のスタイル・慣習を見出すことで、
貧困層に特有な文化」を浮かび上がらせる。
加えて貧困支援・「貧困ビジネス」に携わる方々が主張する
貧困認識や思想、理論に検証を加える。



以上の方法については、検討の余地があるのかもしれません。
そのための理論的・技術的障壁は、山積していると想定できますが…