信仰心が薄れる「隠れキリシタンの里」【長崎:五島列島】

クーリエ・ジャポン10月号の「世界が見たNIPPON」という
特集に、五島列島(長崎県)に関するニューヨーク・タイムズの記事がとりあげられています。



五島列島は、鎖国時代のキリシタン迫害がら逃れた方々が、カトリックの信仰を
守り続けているということは、ご存じの方が多いかも知れません。
(現在も、列島内自治体である新上五島町の全人口約二万五千人のうち、
四分の一がカトリックなのだそうです)



記事は信者の減少や高齢化、若い司祭やシスターの不足、教会の閉鎖、
信仰の世代間の断絶(島の若者の相当数が、都会へ出ていき信仰を引き継がない)
といった、島のカトリック信仰にまつわる変化の様子を記述しています。
また、教会の世界遺産登録と行政の管理についても触れられています。



さて、本記事で登場するある神父さんは、こうコメントしています。
「物質的に豊かになると、人はやすらぎや癒しをモノに求めるようになるのです。」



確かにその通りかもしれません。
豊かな社会では消費行動によって、私たちは意味や価値を獲得できるようになります。
(「プリウスに乗って、家族と一緒に田植え体験をする」→エコ・環境教育・家族を大事にする私)
物語的消費とか言われるこういった消費行動の隆盛が、意味や価値を供給する機能を果たす
宗教の役割を相対的に低下させているということでしょう。



しかし、もうひとつの要因は当然指摘されます。
宗教は、共同体における人々の集合行為という側面があり、共同体に意味や価値を供給し、
その意味や価値を介して個人を共同体に結びつける機能を果たすのです。
(地方の有名なお祭りをイメージしてください。徳島の阿波踊りや岸和田のだんじりなど)
※ここでいう「共同体」は「地域」に限定される概念ではないですが、以下「地域共同体」としてお読みください。
このことは、共同体に人が少なくなれば、必然的にそこでの信仰活動が脆弱化してしまうということを指しています。
本記事でも触れられているように、五島のような離島自治体は現在、産業の衰退化などの影響からか
急速な人口減少に悩まされています。
カトリックは中でも共同体に働きかけることで、歴史的に世界で勢力を拡大してきました。
であるがゆえに、離島という共同体の社会環境の影響を強く受けてしまうのです。



島の方々には、教会の世界遺産化、「観光コンテンツ化」に抵抗があるという方も多いそうです。
確かにこのことで、行為としての信仰を通じて、島の心や結束を感じるといったようなことは
難しくなるのかもしれません。
古くから島で信仰を守り続けてきた方にとっては、寂しいことでしょう。



とはいえ、「信仰を可視化」し、メンテナンスの対象とすることによって、
信仰の風化を避け、次世代にその価値を引き継ぐ望みを繋ぐことができる、
このように考えることも可能ではないでしょうか。
行政に任せず島の方々が、少人数でも教会のメンテナンスの主体として関わる。
よそ者のセンチメンタリズムかもしれませんが、それは形を変えた「信仰」だと私は思うのです。