【都市探訪】福島県会津若松市 〜会津武士道・白虎隊の社会学(その1)〜

黎明の宇都宮を発ち会津若松に向かいます。
黒磯駅で乗り換えなければならなかったのですが爆睡により華麗にスルー。
1時間待ちぼうけして、何事もなかったかのように後続列車に乗車。
郡山駅磐越西線に乗り換え、会津若松駅に降り立ったときにはもうお昼前でした。



会津若松市会津地方の中心都市です。
恥ずかしながら私、「会津」および「会津若松」についての予備知識はほぼ皆無で、
知っているのは「磐梯山」と「渡部恒三」ぐらいのものでした。
ちなみに高村光太郎「智恵子渉」の名高いフレーズ、「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川
安達太良山阿武隈川会津だと思っていました。
(正しくは福島県中部地方中通り」の二本松市にある。)



※ウィキペディアのデータ「会津若松市」




※余談ですが二本松にも行き、光太郎と智恵子がよく登ったという丘に足を運びました。
安達太良山阿武隈川を目視済みです。ただただ暑かった…
「あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、すんなりと弾力ある雰囲気」みたいに洒落たことの言える
気候風土だったのだろうか、当時のあそこは。



しかも「白虎隊」の拠点が会津若松だったことも、
「白虎隊」がそもそも何なのかも知りませんでした。
そんな体たらくの私ではありますが、今回は都市の観光資源としての「白虎隊」、
共同体を代表する思想としての「会津武士道」に迫っていきます。



※ウィキペディアのデータ「白虎隊」
◇参考文献「会津武士道」(青春新書:星亮一著)



1868年、戊辰戦争
当時薩摩、長州を中心とした新政府軍は、鳥羽伏見、甲州、宇都宮の戦いにおいて旧幕府軍を駆逐、
軍勢は旧幕府軍の雄藩である会津藩の本拠地、会津若松に迫っていました。
ここでも近代的兵器を具える新政府軍に対し、劣勢を強いられた会津藩兵および旧幕府軍
会津若松城での籠城戦を展開。
この際、城下に迫る新政府軍と対峙したと言われているのが、13歳や15歳といった少年兵から構成された「白虎隊」です。



白虎隊は少年兵ということもあり、会津藩の予備兵力ではありました。
しかし白虎隊が戦線に投入されるほど、当時の会津藩は劣勢を強いられ、総動員体制を布くしかなかったのでしょう。
白虎隊は転戦をしながら市内の「飯盛山」へと逃れていきます。
山中から市内を見下ろし、若松城の炎上を認めた彼らは、自らの「祖国」の敗北を悟り、
たった一人を残し、飯盛山にて総勢が自刃して果てたのです。
現在、飯盛山には白虎隊員ほか、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にし約200名の女性の霊が眠っています。




飯盛山から若松城(修復中)を望む



会津藩殉難烈婦碑(武家女性や討ち死にした女性の慰霊碑)



飯盛山には現在、多くの観光客、弔問の人々が訪れています。
2006年には小泉元首相も拝礼に訪れました。
驚いたのが第二次世界大戦前、当時の同盟国であったドイツ(ナチス党)、イタリア(ファシスト党)より
寄贈された白虎隊精神を称える記念碑があったこと。
白虎隊の事件が悲劇として消費され、全体主義国家における理想的国民像として称揚されていたという、
当時の政治的状況が感じられます。
さらに、第二次世界大戦後は当時のGHQにより記念碑が破壊され、そののちに復元されたという経緯もあるそうです。



「少なくとも白虎隊事件は「会津藩」を「大日本帝国」と見立てる欲望の渦巻く
当時の趨勢では、反省的に顧みられることはなかったのだろうか?」
「白虎隊事件を美談とした者、教訓とした者、その主体は誰だったのだろう?そして誰に語り継がれているのだろう?」
「現在、白虎隊はどのような物語として、誰に消費されているのだろう?」
「旬死女性の慰霊碑はどのような経緯で、いつ設置されたのだろう?」
様々な問いが私の頭の中を駆け巡ります。



おそらく飯盛山はこれまで、様々な人々の思惑によって利活用されてきたのでしょう。
そしてその都度、飯盛山という空間は再編されてきた。
「死者が眠る霊的空間」「ナショナリズムの空間」「観光地としての商業空間」
戊辰戦争や白虎隊事件を学ぶ教育空間」「戦争被害に関するジェンダーバイアスが議論され、争点となる空間」として。
現在、飯盛山は一つの空間として多重的に併存している。否、拮抗し続けてきたと表現する方が適切かもしれません。
そのような意味では、飯盛山会津という一地方にありながら、
その影響力は日本および世界にまで拡がっています。地域という空間を超越しているのです。



それだけではなく、「白虎隊をどのように語るか」という議論はおそらくこれまで、
何百年という時のなかで、星の数ほどなされてきたのでしょう。
そのような意味では、白虎隊は時間を超越しています。



歴史学や歴史社会学には「現在主義」という考え方が存在します。
ごく簡単にいえば、歴史は現在の視点から意味の再構成がなされるというものです。
飯盛山や白虎隊は現在も、私たちの政治的利害や思想のなかに存在し、その影響を受け続けています。



この場所をめぐって、歴史的にこれまでどのような議論が展開されてきたのか。
そして今後、議論はどのように展開していくのか。
それを受けてこの場所はどのように変わっていくのか。
その行方を左右しているのは、現在を生きる我々なのかも知れません。



本稿では白虎隊事件そのものを私がどう評価するかは、あえてしませんでした。
ただし、現在主義の立場に身を置くならばいっそう、そんな議論は思想史の再検討という観点から非常に意義があります。
次回は白虎隊が思想的に依拠していたと思われる「会津武士道」に迫っていきます。