【読書記録】アップタウン・キッズ−ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化−


アップタウン・キッズ―ニューヨーク・ハーレムの公営団地とストリート文化


テリー・ウィリアムズ(著)
ウィリアム・コーンブルム(著)
中村 寛 (翻訳)
大月書店




ニューヨーク・ハーレム。
またはアップタウン。
そしてプロジェクト(公営団地)。



これらの言葉が、アメリカにおいて発せられる際、既に
「貧困」「ドラッグ取引」「人種隔離」「暴力」「福祉依存」
といった、ネガティブな意味が付与されていると言われます。



著者のテリー・ウィリアムズ、ウィリアム・コーンブルムは、
この地区において、人々の生活をフィールドワークを用いて研究してきた
エスノグラファー」(後述)です。
著者はアップタウンの若者と共に生活をし、語り合うなかで
彼らの生活のリアリティを抽出していく。
そこから得られる知見は、実に多様で示唆に富んだものです。




○要約
アップタウンの公営団地には多くの黒人、ヒスパニックの若者が住んでおり、
本書の主人公も「そういった若者」です。
ところが当然、彼らの行動様式・能力・趣味・嗜好は多様性に富んでいます。
大学院に通う者、ラップミュージックに傾倒している者、
ドラッグ取引に手を染めた過去をもつ者…
ニューヨークの産業構造、家庭環境、公教育へのアクセス、
友人関係、コミュニティの支援など、マクロ−ミクロの要因が
彼らの人生を規定しているようです。



例えば、ニューヨークの産業構造。
ニューヨークは、世界の金融基地、文化の中心として現在は名高いですが、
1960年代〜70年代初頭までは、製造業の集積地でもありました。
しかし、これはニューヨークに限らず全米、
日本の大都市にも当てはまることですが、
大都市の製造業は70年代以降顕著に、地価の上昇によるコスト圧迫、
海外との競争激化などの影響を受け、安価な労働力と広大な敷地を求め、
工場を海外に移転させます。



しかしそこはニューヨーク。製造業の空洞化は金融センターとしての機能強化と、
企業向けサービス産業(コンサルティングなど)、小売サービス産業の台頭により
カバーされ、「世界都市」としての名目を保ちます。
そして何より現代においては文化、つまりアートや音楽産業が
ニューヨークの「創造性」を象徴するものとして、
世界中のクリエイターをひきつけています。



本書において登場する黒人やヒスパニックの若者のなかには、
ラップやアートで名声を得たいと夢見る者もいます。
上記をふまえ以下、CHAPTER3・4のヒップホップに関する部分を紹介しましょう。



○詳述
・ヒップホップ
ストリートは虐げられたマイノリティの生活苦、
「白人文化」への怒り・反逆を栄養にジャズやブルースを生み出してきました。
(ややステレオタイプ的ですが)
現代のヒップホップも例外ではなく、
(「ラップ」はスタイルとしての「ヒップホップ」の一様式です)
アップタウンのストリートより世界中にファンをもつDJやラッパーが生まれ
アップタウンの若者たちは「自らの文化」としてのヒップホップ、ラップミュージックに対して鋭い批評的視点と誇りを持っています。



しかし、その文化によって利益を得ているのは
アップタウンから生まれたクリエイターではなく、
ダウンタウンの音楽産業、それを牛耳る「白人たち」であるという認識が
彼らにはある。
(彼らはそういった白人たちを、「文化を食い物にするハゲタカ」と呼びます)
この搾取の意識は時に「黒いまねをする」白人に対する反感につながります。
ストリートに黒人として生まれ、貧困と暴力のうずまく環境の中育ち、
アフロセントリシティ(黒人文化の視点から歴史や社会現象を解釈する思想)を
血肉化している我々こそ、本当のヒップホップを掌握しているのだと。



このような反感を表明した黒人の男子に対する、
おなじ黒人の女子の切り替えしが秀逸です。
「ヒップホップは学習によって身につくアート形式」であると言うのです。
確かに、ヒップホップを都合よく解釈し、しょうもない暴力と怒りを粉飾した
作品をばらまく白人アーティストは存在する。


しかし、商業的に成功していても、ヒップホップを尊重すべき文化ととらえ、学習し、
ストリートの感性を表現している白人アーティストも存在する。
そんなアーティストは、人格や話し方は「白人的」でもヒップホップの守護者だ。
文化を人格や生活と一体となった、硬直したものととらえてはいけないという
彼女の主張は、非常に印象的でした。



エスノグラフィーの愉しさと価値
ところで、本書のようなフィールドワークに基づくある集団や事象のスケッチを、
人類学や社会学では「エスノグラフィー(民族誌)」と呼んでいます。
エスノグラフィーの価値とは何でしょうか。私は以下の2点にあると考えます。



・人間の豊かな「主観的意味世界」の救出
私たちは常にある社会集団(○○会社の課長、△△市の住民etc)に属しています。
行政や企業はその社会集団に基づき、統計をとり、事業の計画を立てる。
その中で私達は、等しい価値を持った「1」にすぎません。
ところが、私達は同じ社会集団に属していても、
異なる行動原理や嗜好をもつ個人です。
ですので、おなじ個人として向き合っているつもりの相手から、
統計的判断から、同じ集団にいるならほかのやつと同じだろうと「十把一絡げ」に
扱われると腹が立つこともある。



しかしながら私達も、ある見知らぬ他者や社会集団を理解する際、
統計的データのみを無反省に引用してしまうことがないでしょうか。
それどころか、時には他者を前にしても、統計データの印象だけを根拠に
その人となりについて解釈や発言をしてしまうこともある。
当然ながら他者も自分と同じように、複雑な行動原理と嗜好を
持っているということ忘れて。
このような他者とのコミュニケーションをはかる上で非常に重要な、
他者の主観的意味世界(行動原理や嗜好のもとになる「世界観」)を
偏見に囚われず味わう技術や愉しさをエスノグラフィーは提供してくれます。



・「過剰な言説」の問い直し
ある社会や集団は、歴史的経緯から繰り返し語られ、
人々に特定のイメージが強く植えつけられていることがあります。
(その語られ方を人文社会系の学問では「言説」といいます。)
例えば「沖縄」と聞いて私達は何を頭に思い浮かべるでしょうか。
「青い海」「米軍基地」「三線の音色と島唄」「優しくほほえむおばあ」
「助け合いのコミュニティ」…


このような言説とそれに付随するイメージは、一旦成立してしまうと、
当社会や集団に対する事実認識を難しくするばかりか、その言説とイメージを
「求めて」「合わせて」人が言動を調整することも少なくありません。
(例えば、「大阪のおばちゃん」はカメラを向けられると、
「大阪のおばちゃん」らしく陽気にふるまうなど)
エスノグラフィーはそうした言説やイメージの過剰によってかかった
霧のようなものを晴らす知見を提供してくれます。



○ひとこと
本書は決して安くはないですが、
ドラッグや貧困問題、ストリート文化に興味がある方などには
是非読んで頂きたいです。
良いエスノグラフィーは知識を得られるだけではなく、小旅行に行った様な
文化経験に近い愉しさがありますので。