【読書記録】暴走族のエスノグラフィー−モードの反乱と文化の呪縛−


暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛
佐藤郁哉(著)
新曜社



エスノグラフィー第2弾、今回は「暴走族」です。
「暴走族」という言葉、私など大都市郊外の新興住宅地に身を置くものとしては、
遠い昔の話のように聞こえるのですが、
(私が小学生ぐらいまでは、週末の夜、彼らが近所の幹線道路を
賑やかしていたのを覚えています)
今も日本のどこかにいるのでしょうか。



というのも、本書にも記述のあるとおり、昭和50年代末(1980年初頭)以降、
統計上は急速に減少していったからです。
とはいえ昭和40年代末以降登場した暴走族は、警察との抗争、奇抜なスタイル、
マスメディアの報道などいくつかの特徴も相俟って、高度成長期の日本における一つの
「文化現象」ともいえる強烈な印象を後世に残したといえるでしょう。



本書は、社会心理学社会学を専門にする著者が、
実際に一年間、京都の暴走族と「行動を共にしながら」、
(つまり、集会に参加したり、彼らと語らいながら)
書き上げた暴走族のスケッチです。
彼らの現実から見えてくるものは、高度成長期の日本における消費社会のメカニズムと
文化の創造・表現をめぐる私達が今なお抱える、普遍的な課題です。



○要約
暴走族をめぐっては、本書が登場するまで、彼らを駆り立てる理由として、
「受験競争からオチコボレた不満」「欲求不満」「自己顕示欲の解消」など、
若者の「心理学的」要因を挙げる学術的研究が中心でした。
ただし、このような研究では実証的データが示されることがほとんどなく、
時には「潜在的な不満」といったあいまいな理由が掲げられるものなど、
信憑性に疑問符をつけたくなるような研究も少なくなかったそうです。



著者はこういった側面を厳しく批判し、
「遊び」としての暴走(第一章:スピードとスリル)、
「創造的行為」としての暴走(第二章:ファッションとスタイル)を
アンケートやインタビューを通じて明らかにし、
暴走行為を魅力ある、「彼らが惹かれるのも当然な」行為として評価しています。
彼らのことばを借りてみましょう。



【p69:暴走の快感】
「みんなが、こう、フィーリングがバッと合うたときにな、
なんか、なんかが分かんねん…(中略)
走ってると、一心同体になってると思ったときがサイコーなんや。
スピードにノッてな。そういうときが、もう、サイコーやな。」


→「走る」という共通の目標に向って、団体行動をとる快感が述べられています。
統制の取れた集団行動は宗教的陶酔を帯びる、
私達もスポーツなどで経験したことのある快感。
無秩序のようでいて高度に秩序化されている、近代的に馴化された身体の感覚。



【p85:車の改造について】
「まず、車高落とすやろ。そんで、ゴッツいタイヤとホイールにして…(中略)
内装は、こら、キリないわ。紫とか赤のじゅうたん敷いたり、
シャンデリアさげたり、マスコットつけたり…、
コンポはまあ、必需品やな。エンジンは、いじりだしたら、キリないで。」


→改造のための部品は市場に出回っており、
改造費に50万以上かける者もザラだといいます。
車周りの部品は毎年モデルチェンジし、他の消費財とおなじように
絶え間ない革新と流行がある。
かれらはこういった部品の情報を交換することでコミュニケーションを楽しみ、
(お金のある限り)自分なりのカスタムを愉しむ。
そしてその車は「彼らしさ」を帯びるようになり、
お互いのスタイルを評価することを通じて、また彼らを部品の消費に駆り立てます。



そんな暴走を楽しむ彼らですが、いつまでも暴走しつづけるわけではないようです。



【p263:日常への回帰】
「もう、うちら十七やし、オバンやしな。もう、オチツカなかんわ」


→「オチツク」というのはつまり、暴走族からの卒業を意味します。
彼らの間では、いい年(20代を過ぎて)をして暴走し続ける者は「イチビリ」として
非難の対象となってしまいます。暴走は若者のある時期だけに許される「非日常」なのです。
「オチツイ」た彼らは、かつてくだらないものとしていた家庭生活や職業生活に入り、
そこにもそれなりの生きがいや現実感があることに気づく。
暴走という「非日常」の思い出は、かつての仲間との酒の場での語らいを通じて、
現在を生きる彼らのそれぞれの立場から解釈され、都度あらたな意味が付与されます。



○考察
このように、彼らのことばに耳を傾けてみると、
私達の多くが同じような経験をし、同じような楽しさを
味わったことがあるということに気づかされます。
以下、現代の若者との共通点と相違点を整理してみましょう。



《共通点》「消費」の感性【P98】
暴走族の若者は「モノ(商品)」としての車の部品を消費し、
それを組み合わせる事で彼らのスタイルを作り上げていきます。
この点、ファッションを例にとると分かりやすいですが、
現代の若者も、どんなブランドのアイテムを身に着けているか、
またどんな雑誌のアイテムを「好きそうか」など、
彼の周辺に存在するモノとその評価と、彼のスタイル(かっこよさ)が
イコールとなっている。



《相違点》「日常」と「非日常」(祝祭:カーニバル)をめぐる感覚
著者は暴走族の暴走行為を、帰るべき「日常」を前提とした
「非日常」の祝祭(カーニバル)になぞらえます。
当時の比較的良好な経済環境と豊富な労働市場は、
彼らに帰るべき「日常」を用意していた。
暴走族が費やす若き日における祝祭の幾年は、
「日常」の社会秩序を維持するための安全弁であると。
翻って今日の若者はどうでしょうか。当時の暴走族の若者のように、
「日常」に帰ることのできる者はもちろんいます。
とはいえ、そうでない者も多い。労働で「自己実現」出来ない者。
ブラック企業で心身をすり減らし、ワーキングプアに留まり続ける者。
現代にはいくつ何歳になっても、祝祭の毎日に留まり続ける若者がいるのです。
当時のような経済環境と労働市場は望むべくもないから。
(社会学者の鈴木謙介はこの状況を『カーニヴァル化する社会』と表現しています。)



カーニヴァル化する日常を生きる私達の文化戦略
このように概括すると、「暴走族」ができた頃の若者の方が良かったよね、
となりそうです。しかし私は単純にそうとは思いません。
著者も述べているとおり、「祝祭」は日常の秩序、様式のパロディにすぎず、
「祝祭」→「日常への回帰・埋没」を繰り返すだけでは、
日常の秩序や様式にブレイクスルーをもたらす文化の創造は望むべくもないからです。
(実際、暴走族が後世の私たちの生活様式にどのような変化をもたらしたでしょうか?)
現代の若者は以下の2点の戦略をとることで、
文化を創造することができるのではないでしょうか。
(実際に以下のようにして、今日の若者は文化の担い手になっているとも思います)



①自分たちが「オチツク」ことのできる日常を創造すべく社会にアプローチする。
→現代は若者が黙っていても生きがいを得られる社会ではない。
労働による自己承認を望める者ばかりでもない。
下手をすると食う事(生きる事)すらままならない。
このような状況のもと、生の意味を得るためには社会に働きかけるしかありません。
湯浅誠さん雨宮処凛さんらの労働運動、「だめ連」の活動などは代表的な例でしょう)
その運動プロセスを通じて、新たな生活様式を社会に問うことができるかもしれません。



②日常との距離感を保ち、日常を相対化する
→「皆が充実した生を送る日常」(「幸せな家族」など)が得られなかったり、
信じられないならば、そこへ埋没・着地せず、
常にカーニヴァルのモードを転換し続け、日常を「対象化」した表現をし続けること。
そうしてカーニヴァルとしての日常を送る者から、
日常に対する鋭い批判やメッセージが発せられます。
(例として、森田芳光さんの『家族ゲーム』などが浮かんできます)



文化は、私達の日常との闘いから創られるのではないでしょうか。