【読書記録】食の共同体―動員から連帯へ―
食の共同体―動員から連帯へ―
池上甲一/岩崎正弥/原山浩介/藤原辰史
ナカニシヤ出版
ひょんなことから「食育」に関する博士論文を講読する機会をいただき、
参考文献として手にした本です。
私はどちらかというと、「飯ぐらいは一人でゆっくりと食べたい」
と思ってしまうタイプなのですが、親しい仲間と囲む鍋など、共に食べるという行為から
生まれる共同性については、実感できるように思います。
このような俗なレベルでなく「聖」のレベルでは、宗教に内含される食に関する様々な禁忌
(「イスラームでは豚肉食が忌むべきものとされている」など)
は人々に強い連帯意識をもたらし、信仰共同体を支える基礎となっているということも
指摘できるでしょう。
ところが共同体の連帯あるところに統制と排除の欲望あり。
本書では「米食共同体(日本人=「米」言説)」「ナチス」「有機農業運動」「食育運動」
を分析対象に、執筆者はそれぞれに潜む統制と排除の論理、イデオロギー構造を明らかにしています。
どの論文も示唆に富む内容なのですが、本稿ではそのなかから
「第4章:安心安全社会における食育の布置」を取り上げ紹介いたします。
(やはり、参考文献なので…)
○前提
食育について論じる前に、そもそも
①「食育」とはどのように定義されているか(どのような意味や機能を与えられているか)
②「食育」ということばがいつごろから世の中に登場し、その必要性が訴えられるようになったか。
といった前提を押さえておかなければなりません。
①食育の定義と意味・機能
「食育」は2005年に成立した食育基本法によって、以下のように定義されています。
◇子どもたちの健全な心身、「豊かな人間性」を育むもの
◇食生活の「乱れ」や食の安全に関する問題、伝統的な日本の「食」が失われる危機に際し、
「国民運動」としてあらゆる主体の関与のもとで推進されるべきもの
◇農村漁村の活性化と国の食料自給率向上に資するもの
…と非常に多様な意味・機能を期待されています。
②「食育」の登場
2001年10月に初めて発生したBSEは、生産者/消費者の食の安全意識に働きかけ、
経済的影響も非常に大きなものでした。
BSE問題への政府の反応は早く、翌月には調査検討委員会を立ち上げ、
翌年4月に「BSE問題に関する調査検討委員会報告」をまとめます。
この文書に初めて、政府文書内に「食育」の文言が登場したのです。
従って、「食育」の登場はBSE問題→食の安全問題を直接のきっかけとすると
認識して間違いはないでしょう。
○要点
上記の定義と経緯を踏まえ現在、食育はどのように展開されているのでしょうか。
・「国民運動」―多様な動機をもつ様々な主体の関与―【p199〜p212】
食育は上記の定義の通り、政策化されていながら(政策的裏付けがされていながら)
きわめて多様な意味・機能を想定されています。
すると「食育」を自らの活動にお墨付きを与える象徴(シンボル)として使うことを目論む、
様々な主体が現れてくる。例えば…
◇行政(霞が関/地方自治体)…農水政策、地方経済対策の根拠として
◇教育関係者…生徒の食生活管理→生徒の秩序化の根拠として
◇栄養管理関係者…保健上の食生活管理の必要性を正当化するものとして
/新たなマーケット創出
◇ファーストフード業界/スナック業界
…ブランドイメージの再構築(「ファーストフードは身体に悪い」)
/新たなマーケットの創出
◇流通業界…新たなマーケットの創出
◇地方農漁業関係者…産業活性化のチャンス/生産者と消費者の交流機会獲得
現状では、教育、地域第一次産業活性化、保健、マーケット創出など
多岐にわたる意味や機能が「食育」という言葉のなかに混在しています。
今後、「食育」がこれらの特定の意味・機能に収斂していくのか
またはさらに新たな意味や機能が付与されていくのか、は不透明と言えるでしょう。
○食育基本法に通底する思想
本論文の著者は国政主導で制度化され、推進されている食育には、
国家による国民の動員・統制と排除の論理が見え隠れすると主張しています。
・日本型「伝統的」家族・「伝統的」食事習慣への回帰志向
―画一化された食育推進主体と「場」の想定イメージ―【p213〜p222】
食育基本法では、食育推進の「場」として家庭を重視する姿勢が文言の行間から読み取れます。
またその家庭は、「家族が一堂に介して団欒しながら食事をとり、
その場に応じて箸の持ち方や食前食後のあいさつ…(中略)などを
親世代が子ども達に伝えていく家族」が想定されています。
つまり「お父さんとお母さんがいて、きちんと手間をかけた料理
(ご飯・味噌汁・焼き魚・副菜etc…)があり、きちんとした食器や食卓、調理器具が
そろっていて、子ども達は行儀よくお父さんとお母さんの話を聞く」
というある種の経済的・生活習慣的ハードル
(現代においては狭き門といっていいのかもしれない)が設定されている。
換言すれば、執筆者は性的役割分業や家父長制といった批判の多い旧来のシステムと
親和性のある主体(主婦など)が、食育基本法では暗に想定されているのではないか、
と指摘しているのです。
上記のイメージに依拠した家族像は、おしなべて批判されるわけではないのですが、
少なくとも食育基本法には
・ひとり親家庭で親がパートに出ているため、食事は買ってきたものか
両親が作りおいたもので済ます子ども
・家や食を失い、炊き出しで食いつなぐ人
・多国籍で年齢も異なる複数の人間とルームシェアをしていて、
夕食の当番はあり人数分作るルールは設定してあるものの強制力はないため
朝帰り、昨日当番が作っておいてくれたボルシチを朝ごはん代わりに一人で食べる人
といった主体を全く想定していません。
従って国民に硬直化したライフスタイルを推奨している、という批判は妥当かもしれません。
・新自由主義志向【p193】
食育基本法はBSE問題を背景に「食の安全→安全な食事を自己責任で選択する」という
アメリカ発祥の「フードチョイス」という概念を取り込んでいます。
理念としては食品表示などを正確に読み取れるような、
食に関する情報を適切に取捨選択する主体を育てるというものです。
しかしこの理念も、
◇選ぶ能力を十分に開発する余地のない主体(日本語教育の機会が与えられていない外国人など)
◇選ぶ余地のない主体(経済的事情で安いものしか買えない人など)
を排除する危険性を内含しているうえ、
◇生産性や利益を鑑みながら安全な食を供給するネットワークの構築
◇「汎用性があり低コストで流通可能な食品情報とは何か」という問い
を、消費者(食品選択者)を消費行動選択という狭い範囲に閉じ込めてしまうことで
多様な主体が連携して、食に関する問題を考察・深化・利害調整するきっかけを失ってしまう、
という機会損失のデメリットが指摘できるかもしれません。
※ただ、政府は食育基本法において「食に関する情報を適切に流通させること」をうたっています。
とはいえ食育の理念が「膨大な食の情報に追われ、食の情報の意味を吟味する余裕のない」状態に
消費者を追い込んでしまう危険性については、おそらく無自覚でしょう【p209〜211】
○本論文に対する疑問 ―反権力・権力批判の技術―
本論文で指摘されている上記の思想は―誤解を恐れずイデオロギーと言い換えましょう―
「食」という日常的・身体的実践の繰り返しによって慣習化することから
非常に見えにくいものです。
また、「食育」→「健全な食によって健全な心身を育てる」という建前自体は、
特に批判すべきことではないようにも思えます。
このように潜在化しがちなイデオロギーを明確化し、書き出しているという点で、
本論文は食育政策の思想的妥当性を問いなおす、貴重な意義があるといえます。
ただ、執筆者は権力(国家)によるイデオロギーや支配の論理を、
政策や制度の観点から指摘するにとどまり、
実際に「食育」が人々から(運動主体を含む)どのように受け止められ、
どのように実践されているのか、という観点を盛り込んでいません。
(例:「食育」の現場である学校や、調理室のなかで、教師や給食調理者、
生徒がどのように食育を認識しているか?
→先生も生徒も、実は「食育って何?」とか「食育なんていらねーよ」
と思っているかもしれない)
そのため、権力のイデオロギーがあたかも我々(「食育」を意味づけ、実践する主体)に
そのまま作用し、何の支障もなく我々を動員できるものとして、
かえって権力のイデオロギーを「強調」してしまうことが想定されるのです。
反権力の主体は権力のイデオロギーに固執し、危険性を訴えるほどに
権力に容易に操作される「弱い主体」を想定してしまうというパラドックス。
そしてこのパラドックスは、いずれ保護主義に変化する。
戦後左翼が今なお蘇生できない理由も、このあたりに垣間見えるように思います。