【読書記録】希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想―

文体が軽妙で読みやすい。見習いたい…
テーマは共同体論と若者論。社会学の得意分野です。
本稿ではピースボートの活動の様子には触れませんでしたが、
ルポタージュとしても楽しめます。



希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想―
古市憲寿本田由紀(解説と反論)
光文社新書



ピースボート
街中で「地球一周99万円」と大字されたポスターの、あれです。
先日、社民党を離党した衆議院議員辻元清美さん
(「ソーリ!ソーリ!!」「私、へこたれへん!!」の人)
が学生時代に立ち上げたNGO団体で、名称やコピーの通り、
難民キャンプや途上国も含め世界中を船で巡ることを通じて、
世界の平和や国際問題について考えよう、という趣旨のもとで活動しています。



そんな一見政治色(左翼色)の強いピースボートですが、
安い金額で世界一周ができるということもあり、
学生など若者のあいだでは大変な人気です。
本書では、そんなピースボートに集った若者が、
船内での様々な企画(事件?)や、仲間同士の交流を繰り広げていく様子が、
自ら若者のひとりとしてピースボートに乗り込んだ筆者の観察から
生き生きと描かれています。
(著者は社会学の研究者なので、当然中立的、というか「斜め」目線ですが…)



若者は同じ船の仲間とのやりとりを通じて、
どのような心境の変化を遂げていくのか。
そして現代の若者の交流、彼らがつくる「つながり」にひそむ可能性と限界は。



○要約
著者の記述にならい、若者と共同体の現状と、
問題点について明記しておきましょう。
(※本書では「共同体」ということばを、家族や会社のような
「人と人とのつながりがある場」の意味で使用しています。
なお、国家も共同体の一種です。)



◇現代の若者
一昔前(90年代のバブル崩壊ぐらい)まで、
日本の若者は「いい学校」→「いい会社」→「いい人生」
といった右肩あがりの人生設計を信じて生きていけたと言われています。



一生懸命努力して勉強して、いい会社に入って一生懸命頑張れば、
給料もどんどん上がっていき、いい暮らしができる。
こんな価値観が、一昔前の若者の生きるモチベーションになっていました。
(「メリトクラシー」(業績主義)といいます。)



しかし現在、こんな価値観を臆面もなく信じている人がどこにいるでしょうか。
(といえば角が立ちますが)
現代では社会で「成功」するうえで(何が「成功」かはさておき)
学歴などなんの当てにもなりませんし、
頑張って働いていても突然クビを切られたりする。
しかも、その「頑張る」基準や社会の組織で評価される基準が至極曖昧で、
「コミュニケーション力」「人間力」など、
人によってどうとでもとれるものになっている。



あまつさえ、「頑張れば夢は叶う!!」とか
「やればできる!!」とかいう暑苦しいことばや、
そう若者を煽る人たち(企業や教育機関)は跋扈している。



そんな他社による評価の基準があいまいで、
できるかどうかわからない(むしろできない可能性が大きい)、
キラキラした夢に煽られ身動きがとれなくなる者。
終わりなき自分探しに駆り立てられる者。
そんな若者を著者は「希望難民」と呼びます。



◇現代の共同体(家族・会社・地域/人と人とのつながり)
一昔前(1970年代ごろ)まで、日本人の多くには生活の場として「家族」、
働く場所としての「会社」、余暇を過ごす場としての「地域」
という確たる居場所が用意されていました。
そういった「居場所=共同体」は、私たちにとって
①経済的基盤
②自己承認の基盤
(「わたし」がほかでもないわたしと他者から認められている場所)
となっていました。



ところが現代は、昨今の児童虐待、失踪老人、孤独死などの問題に
象徴されるように、家族のつながりは確実に形骸化しつつあります。
正規雇用の隆盛とともに、終身雇用は半ば伝説化しつつありますし、
地域社会も人口減少や産業の衰退、膨らむ行政コストの影響を受け
どこも青色吐息です。
つまり、かつて栄えた共同体は解体しつつあり、
現代を生きる私たち皆がアクセスできる基盤としての地位を
失っているのです。
(もちろん、今も家族と仲良く、友人も多い幸せな人はいますが。)



これらの共同体に代わり、現代の人文社会科学の研究者は
「共同体」の復権を主張しています。
といっても、一昔前の「良かったころ」の家族や地域社会には
戻しようもありません。(復活を声高に叫んだり、懐かしがったりはできますが)
彼らは「趣味・サブカルチャーのつながり(コミケなど)」や
「友人どうしのつながり(SNSなど)」
などの、ゆるやかにつながる共同体の可能性を模索している。



さきほど挙げた共同体の基盤の話でいうと、
ゆるやかにつながる共同体が、若者にとって汎用的な経済的基盤となりうるか、
という点は、今のところあまり期待できないかもしれません。
(ホームシェアリングや音楽・映像などのクリエイター集団は例として
挙げられますが)
むしろ本書の文脈で重要なのは「自己承認」のほう。
上記のようなゆるやかなつながりは、若者にとって
「自分は一人じゃない」という安心できる場になりうるか、という問題です。



○要点
上記を鑑み、本書の指摘に沿ってピースボートが若者にとってどのような意味を
もっているのかを追っていきましょう。



ピースボートに乗る前の若者は、「世界平和について考えたい
/難民問題について知りたい(セカイ系)」
「それまでの生活を抜け出したい(自分探し系)」
「海外のいろいろなところに行きたい(観光系)」
「友達がほしい・ワイワイやりたい(文化祭系)」
など様々な理想や動機を持っているといいます。



ところが多くの若者はピースボートから降りてしまうと
次第に当初抱いていた理想や動機を見失ってしまいます。その理由は。



ピースボートは、寄港地にいるより船に乗っている時間のほうが
圧倒的に長い。若者たちはその閉鎖的な空間でお互いともだちとなり、
非常に濃密なコミュニケーションをかわします。
彼らの一部は船を降りた後もともだち同士で定期的にあつまるなど、
交流を続けていく。ピースボートをきっかけに彼らは
「ゆるやかなつながり」を得る。



そこは、「わたしがわたしのままでまったりいられる居場所」。
理想や夢が介在する余地はない。
なぜなら、そもそも彼らは「ピースボート」の経験を共有しているだけで
お互いに利害関係があったり、政治意識を共有していたりするわけでは
なかったのだから。



そして、ピースボートに乗った多くの若者は、
ともだちやつながりというまったりとした「承認の共同体」を得て、
日常へ戻っていく。
「希望難民」たちは航海の果てに新天地を発見する。
当初の理想や夢と引き換えに。



著者はそんな若者の夢を「あきらめさせる」
ピースボートを「よかったね」と肯定的に評価します。
あてどない夢に躍らせ続けられるぐらいなら、と。



○考察
本書の主張に対しては、様々な反論・批判が寄せられるでしょう。
…というやいなや、本書の中ですでに著者を指導した本田由紀先生の
批判が挙げられています。以下の通り。



①若者が自己承認の得られる、まったりした「ゆるやかなつながり」
は果たして持続可能性があるのか。



②不利な立場に置かれている若者が「ゆるやかなつながり」のなかで
まったりと生きることで、彼ら自身がおかれている不条理な社会構造が
温存されるのではないか。



①について。
著者の指摘する「ゆるやかなつながり」は、自己承認は得られるけれども
お金が稼げるわけでもなければ、誰かが経済的に自分を援助してくれる
わけでもない。
つまり一度自分が大病にかかってしまったり、職場から解雇されてしまったり
すれば、そんな「ゆるやかなつながり」にアクセスすることもできなく
なるのではないか、ということ。



確かに、現代でも本当に困窮している人はつながる余裕(資源)や技術
すらないから困窮しているわけですし、それを考えれば
今現在「ゆるやかにつながれている」若者は恵まれているのかもしれない。
君らもうかうかしていると飯すら食えなくなるよ、という厳しい指摘。



②について。
お金がなくてもアイデンティティの危機に陥ることのない
「ゆるやかなつながり」の中で私たちは、
ある程度快適に過ごせるのかもしれませんが、
そこから生まれる言動が、社会構造を変える可能性を持つのか?という指摘。
「ゆるやかなつながり」は、若者にとって社会の不条理から
目を逸らすものにすぎないのではないか。



私も大枠では上記の「暑苦しい」本田先生の指摘に賛成です。
「社会に関わるエリート(社会を動かしたいと思う人)」と
「まったりとしたつながりのなかで生きる人」が分断される社会、
ある意味での階級社会化を認めてしまうことが良いとは思えません。



階級社会そのものは善でも悪でもないですが
階級社会には階級社会に生きる為政者や市民にふさわしい
ふるまいが求められます。
そして階級社会には階級社会における我々の生を支える
総合的なシステム(行政/企業/市民組織に代表される)も必要です。
現代日本社会のシステムが援用できるわけではなく、
システム更新には膨大なコストと時間がかかるでしょう。



これからの日本で、行政や企業、市民社会がその
「階級社会への移行コスト」を払おうとするはずがありません。
おそらく何もできずに時間がたち、その間に多くの社会的弱者が
見捨てられるのが落ちでしょう。



マルクスめいてきますが、私たち一人一人が政治的意識をもち、
「一介の市民」にならなければ、そこに待ち受けるのは
エリートの弱者に対するコントロールと排除です。
(階級社会と言われるイギリスの労働者階級は、
洗練された政治意識を有しています)
日本社会において市民意識なるものを育てる文化や制度は
まだまだ開発途上なのであって、
私たちはまずそのプログラムを確立させなければならない。
そして同時に今まさに社会の不条理に悩み困窮する人を、
少なくとも死なせないよう応急処置を施さなければならない。
本書の共同体構想のもとでは、本当に必要なことができないのです。



とはいえ、とかく共同体・コミュニティに希望を見出す議論が多い中、



共同体の機能を「自己承認機能」に限定し、
それ以上でもそれ以下でもない


と指摘した議論はこれまでになかったはず。



若者の生きづらさを考えれば「自己承認」は言うまでもなく重要で
本書は「自己承認」特化型の共同体をどのように創出していくか、
という技術論を誘発する可能性をもっています。



また本書のように共同体そのものの機能を問い直す議論は
まだまだ蓄積が必要であるはず。
(いまだに「共同体」は大昔の有名社会学者の定義が引用されることが多い)



私たちは本研究に続き、そろそろ共同体の再生を自己目的化することなく、
共同体で「なにができるか」「なにができないか」という
「共同体の機能」に関する議論を精緻化していく必要がある。
それはきっと、スリリングな仕事になるでしょう。