【読書記録】日本型ポピュリズム

ここのところ大阪府の橋下府政、名古屋市の河村市政に関する報道などで、
ポピュリズム」という用語を耳にすることがあります。
とはいえよくわからないので、ゼミの先輩が参照されていた
『日本型ポピュリズム』(中公新書)という本を読んでみました。




日本型ポピュリズム
大嶽秀夫(著)
中公新書



○概要
本書では政治学ポピュリズム概念に則し、
ポピュリズムを「リーダーによる「エリート」と「普通の人々」といった
善悪二元論」の設定」と定義。
自民党派閥政治の末期という政治構造の変動期に生じた「加藤の乱」、
レーガン小泉純一郎の比較、報道系ワイドショーと田中眞紀子の関係等の
検証を通じて、日本のポピュリズムの型を提示しています。



とりわけ本書で強調されているのは、
日本のポピュリズム(ないしは「ポピュリスト政治家」に対する有権者の支持)
の盛りあがりとマスメディアの強い相互作用



1980年代後半より登場した
ニュースステーション」(テレビ朝日・朝日系)や「NEWS23」(TBS・毎日系)といった
報道系ワイドショーは、政治家、久米宏筑紫哲也といったキャスター、
各分野の専門家の起用を通じて、視聴者(有権者)に政治や経済トピックに存在する
「前後の文脈」を提示しました。
視聴者側には政治や経済を構造的に把握したいというニーズも生まれつつあったため
報道系ワイドショーは以降、マスメディアに定着していく。



著者はマスメディアにおいて従来「カネにならない」と考えられていた
政治・経済の報道番組がひろく視聴者に受け入れられたこと、
また報道系ワイドショーが、従来の新聞やNHK報道の
「断片的」で「内輪的」な政治経済報道の限界を打ち破った功績を認めています。



しかし著者は報道系ワイドショー、またその「成功」に学んだ大新聞といった
日本のマスメディアが政治を娯楽化してみる傾向を助長し、
政治の劇場化を生んでしまったという問題点を指摘。
日本社会にはマスメディアが増幅させるポピュリズムの登場に抵抗する力が
決定的に不足しているのが現状(本書執筆時点の2003年)であると述べています。



○考察―ポピュリズム概念と大衆論―
著者のポピュリズム概念
「リーダーによる「エリート」と「普通の人々」といった「善悪二元論」の設定」
を大衆論とからめて検証していきたいと思います。



ポピュリズムと大衆】
(マスメディアやポピュリスト政治家の言説にみられる)
ポピュリズムの根幹戦略である善悪二元論は、
論じる者が危険性や問題を訴え、批判し続けることでかえって、
善悪二元論程度の単純な構図に踊らされてしまう愚かな有権者=大衆」
というメッセージの受け手の脆弱なイメージを強調してしまう場合があります。



また、善悪二元論批判は論者に、
「自分はそういった愚かな大衆とは違う」という
心理的優越を注入してしまうこともあります。
このような排他的理解こそ大衆的な心理であるともいえるのですが、
この罠にはこれまで学者から労働者まで全ての人間がはまってきており、
本書の著者も例外ではないようにも思います。



上記のような罠は
「大衆=非自律的で集団や権威に同調的な、流されやすい愚かなものたち」
という理解を意識的、無意識的に前提としていることによって生じてしまうようです。
このような大衆理解の源流は、オルテガ・イ・ガセットという哲学者が
1930年に出版した『大衆の反逆』における「大衆」の定義、
「自分を「すべての人」と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、
自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人びと」
(『大衆の反逆』、白水社、p63)
に依っています。



オルテガの定義は、その後各国で吹き荒れたファシズムを鑑みれば
非常に示唆的であり、『大衆の反逆』が今なお名著と称されるのも頷けます。
とはいえ現代に彼の大衆理解をそのまま援用することはできるのでしょうか。



第二次大戦後のマスメディア研究は
(とりわけ1970年代以降のイギリス/カルチュラル・スタディーズ発の)
マスメディアの受け手である大衆が、リーダー(権威者)のメッセージを
自律的に解釈するメカニズムを提示しています。
人々は人々同士の (たとえば、家族や友人と) 議論や折衝を通じて、
リーダー(権威者)のメッセージを批判的にとらえていく。
※もちろんこれらの研究では、大衆は完全に自律的で
リベラルな解釈ができるわけではなく、
マスメディアのメッセージには一定の誘導力が働く点も指摘されています。



つまり「大衆」の社会関係の文脈次第で、
リーダー(権威者)のメッセージの受容の程度が変わってくる可能性がある。
とするなら、「社会関係の文脈」は「社会関係」をどの範囲・規模で捉えるかという
問いが生じてきます。
たとえば橋下府政や河村市政を「ポピュリズム」と解釈するなら
大阪府名古屋市といった政治制度の範囲内の社会関係、、
youtube」や「twitter」で政治的見解を述べる政治家を「ポピュリスト」とするなら
youtube」や「twitter」(を含む情報空間)におけるユーザー間の社会関係、
においてメッセージがどのように受容され、議論されているのかを検証する必要がある。



マスメディア研究のほかにも、第二次世界大戦後のアカデミズムでは
数多くの大衆(社会)論を確認することができます。
その多くが、オルテガの理論を敷衍・発展させたものであり、
「大衆=非自律的で集団や権威に同調的な、流されやすい愚かなものたち」
と単純に定義していません。



現代では上記の例をあげるまでもなく、人々のつながりは多様化しています。
従って大衆論とポピュリズム概念を繋ぐとするならば、
「日本型ポピュリズム」から
地域格差、経済格差、教育格差、情報格差、世代格差によって分断された
現代大衆の社会関係を、それぞれ捕捉するような
分節化したポピュリズム概念
(「地域リーダー型ポピュリズム」/「弱者救済型ポピュリズム」など)
を考えるべきなのかもしれません。
それは「ポピュリズムが機能する範囲・規模はどれぐらいか」
という問いにつながります。



どうやら「ポピュリズム」、
陥穽の多い、手ごわい言葉のようです。