【都市】ある街の公園にて

本日、昼下がりの出来事。



僕は自転車でアルバイト先に向かっていました。
道中、尿意をもよおしたため、
ある公園の公衆便所に入ろうと考え、
公園の中に入っていきました。



公園には、砂場や遊具で遊ぶ三歳前後の子供たちと、
遠くの方で子供たちを見守りながら談笑するお母さんたちが。



僕はあまり深く考えずに、
子供たちの群れの真ん中を割くように
公衆便所に向かって歩いていきました。(それが最短距離だったのです)
何気なくお母さんたちの方を一瞥すると
お母さんたちが皆僕を凝視している。
その視線に警戒の色を感じ、きまりが悪くなった僕は、
用を足した後は子どもたちの群れを避けて公園を出ていったのでした。



明らかに昼間公園にいないような年齢の男が、
無神経にも小さな子供達の輪に入っていくのも「不自然」だった。
小さな子供が誘拐されたり、殺されたりする残虐な事件は
最近もしばしば報道されていることもあるし、
僕の家の近所でも自治会のパトロールカーが走るようになっている。
そういろいろ考えると、お母さんたちに警戒されて当然だと反省しつつ、
何やら釈然としない感じがこみあげる。



もちろん、お母さんたちの視線を「警戒」と一方的に感じたのは僕であって、
お母さんたちにそのような意図はなかったかもしれません。
それはそうなのですが。



○考察
僕が行った公園は繁華街の真ん中ではないですが、
繁華街から自転車で5分程度のところにあります。
公園の付近には幼稚園、私立の高校がある。
古い商店や住宅もあるのですが、新旧の民間集合住宅も周囲にいくつかある。
公園を囲む一帯はいわゆる「閑静な住宅街」と言えるでしょう。



このような街の公園で「平日」の「昼下がり」
僕(20代後半、男性、小太り、自転車に乗っている、
紺色の帽子に灰色のマウンテンパーカー、ジーンズ、黒の運動靴)
のような人間が、小さな子供の近くに寄っていくのは「不自然」だと仮定する。
では、同じ状況で僕と同じ行為をして「自然」な人間とはどんな人か。



ぱっと思いつくのは「おじいさん」「おばあさん」です。
彼らが平日の昼間に公園のベンチで座っていても
別に「不自然」ではないような気がします。
あとは公園にもいた「お母さん」「子供」。
(「お母さん」は子供を連れていないと「若い女性」に見られてしまうかもしれないので
「お母さん」一人では「不自然」かもしれません。「子供」は一人でもオッケー)
最後に「ペットを連れた人」。この場合は、どんな人であってもそんなに
「不自然」ではないような気がします。



○展開
あるところに、ある人がいることが「自然」か「不自然」かということを
別のある人が判断する際、どのような作用が働いているのだろうか。



判断の前提として、
そこがどんな所か(屋内か屋外か、公共的な場所か私的な場所か、自然環境etc…)
が規定されなければならない。



加えてそこにいる人が、
どんな人か(知り合いかそうでないか/性別/年齢/国籍etc…)
いつ、どんな時にいるか
(時間帯/季節/天候/平凡な日か特別な日か(たとえばお祭りや災害)etc…
何を持っているか(乗り物/ファッション/ペットetc…)
何をしているか、誰といるかなど、
考えうる無数の指標を洗い出さねばならないのではないか。



そして問題であり、重要なのは
無数の指標のなかから、見る人がどの指標を重視して、
どの指標を切り捨てているのかということ。
さらにある人に重視された指標は、その他の指標を飲み込み、見えなくさせたり
そもそもその他の指標がなかったかのような印象を
見る人に与えることができるのかということ。



そうすることで、ある環境や状況において、
人は人に対する態度を決定しているのかもしれない。
換言すれば「自分と同じ人間か」「自分と違う人間か」を判断する。
また、このようにはっきり自他を区別せずとも、
「自分と(その指標に照らし合わせて)どの程度距離のある人間か」
を考量し、その人間に対する態度を決定する。



それぞれの場面で、それぞれの人が用いる指標は千差万別でしょう。
とはいえ、ある状況のもとでは、特定の指標が判断において「全面に出てきて」
その他の指標を追いやってしまう傾向があるのかもしれない。
(そしてそれが、対立や差別につながってしまうのかもしれない。)



上記のプロトタイプ(?)を、
ある空間的に限定された「地域」の住民が
生活のなかで、お互いの存在を受け入れたり排除したりしていく過程を考える際、
例えば、新しい分譲住宅が完成し、複数の世帯がほとんど同じタイミングで入居し、
生活や交流が始まっていく場合に適用するとどうなるか。



このような場合、まずその「地域」がどんなところか
(産業構造、政治の状況、建物の様子、自然環境など、これらすべての歴史)
を把握する必要があるでしょう。



そして、どんな人が(世帯数/子供の有無・収入・性別・学歴・国籍・趣味etc…)
どこに住んでいるのか(階・住居タイプetc…)
何をしているか(職業の有無etc…)
何を持っているか(車の種類・ファッション・家財道具etc…)
どこに行くか(職場・学校・公共施設etc…)
を把握する必要がある。



そのうえで、住民同士が互いにどのような付き合いをして
どのように意識しあっているのかを観察していく。
すると何か面白い特徴がわかるかもしれません。



上記に取り上げたような分譲住宅や、
分譲住宅が同時期に大量にできたような街では、
都市論や郊外論の文脈で、しばしば住民の「同質性」が指摘されることがあります。



この場合、どの指標を持ち出して住民の固まりを
「同質的」であると言っているのか。



住民にとって特定の指標が大きな意味を持つがゆえに(例えば「収入」)、
その特定の指標が均一的なことを「同質的」であるとしているなら、
「同質的」であることが、その他の指標を不可視化させる傾向があるのか。
あるいは、その他の指標を不可視化させる圧力が働くことがありうるのか。



そして「同質性」が見られるとするなら、今も昔も同じなのか。
歴史的な比較や検証は可能なのか。



様々な問いが浮上してきます。
人が人を同じだ(仲間・身内)と考えたり、
違う(敵・他人)なと考えたりして
手さぐりをしながら情報を交換し、コミュニケーションをしていく。
人の思想や信仰、置かれている環境についての理解に共通の前提が見られないがゆえの、
現代人特有の及び腰なコミュニケーション。



そんな現代において、コミュニケーションの作法の特異なあり方が見られたり、
コミュニケーションの作法についての特定の語りが量産される「場所」が
現代にあるとすれば。
その実態を検証することに、
興味を掻き立てられずにはいられません。