【その他】議論に関する小考

【とかく議論が多い世の中】
仕事の会議、学校のゼミ、趣味の集まり、
結婚式二次会の打ち合わせ…
あるいは、ブログやツイッターといった情報空間でのやりとり。



誰しも様々な場所で、様々な人と
意見を交わしあう機会があるでしょう。
また、そのような場をもつ機会や手段は、
一昔前に比べれば容易に得られるようになってきていると思います。
本稿では、そんな議論のありかたについて考えてみます。



【「素人」と「専門家」】
ある問題について議論するとき、議論の場にいる人が、
当の問題について背景知識を有していると、
高度な議論を展開できる可能性が拡がります。



※昨今の状況に当てはめれば、原子力発電を含めたエネルギーの安定供給に関する議論は
原子力に関して科学的に熟知している者、政治的な意思決定のプロセスについての
多くの事例を知悉している者がいなければ、場当たり的なものになってしまうはず。



ところが、議論をする人々が、
問題に関する背景知識や概念・思想についての知識を
十分に有していないからといって、議論ができない訳ではありません。
それどころか問題について専門知識を有していない人がいるという状況は、
当の問題の本質をえぐる議論ができるチャンスでもある。



重要なのは「素人」によってなされた本質的な議論を
専門知識を有するものが翻訳(相対化)することではないか。
そして、議論の際そのような翻訳の機会を確保すること。



※専門知識と言ってしまうと学術的な知識に限定されてしまうように
捉えられるのかもしれませんが、私は本稿でそのような意味に限定して使っていません。
例えば、話し合われた内容について、
専門家の間ではどのように考えられているのかを説明したり、
専門用語を簡単に紹介するといったことだけではなく、
たまたま該当する事例を知っていたり、体験をしていたりしたことを
話してもらう、といったことも、専門知識による翻訳に当たります。



なぜなら、翻訳を通じて「素人」は専門知識や概念・思想を
身に着けていくきっかけを得ることができるからです。
すると、「素人」は問題についての専門的な思考様式を知ったり、
専門知識を身に着けることで、別の場所では「専門家」の役割を果たすことに
なるかもしれない。そうなれば、当の問題について考える人々の輪は拡がります。



まとめると
「専門知識がない」という意味での「素人」も、
「専門知識がある」という意味での「専門家」も、
議論で俎上にあがるテーマや、議論に臨む人たちの関係によって
相対的に決まるんじゃないかということです。
※そのニュアンスを表現すべく、鬱陶しくも「」をつけていました。



詳述すれば、自分が議論で「素人」として本質的な論点を模索しようとするか、
専門知識をもとに議論を翻訳(相対化)するか、つまりどの役割を担うかは、
自分を含むそこにいる人たちの知識のあり方、立場―役割の違いによって決まる。



【合意形成のプロセスを大事にするか、意思決定のスピードを優先するか】
ただ、何らかの意思決定を前提としている議論のケースか、
ディベートのようなケース、
あるいはブレスト・アイデア出しのようなケース、
どのケースで上記のスタンスを適用できるのかという点については
様々な考え方があるはずです。
※ブレストでは意思決定や何らかの決着をつける必要はありませんが、
上記のスタンスは出席者すべての発言を活発化させることが
できるかもしれない…



ただ私個人としては、意思決定を求められる時こそ、
「素人」の役割が問われるのではないかと思います。
「素人」の存在は議論の進行スピードを遅くさせる要因かもしれない。
しかし決定ありきの空しい議論が各所で繰り広げられている
日本社会だからこそ、集団の合意形成のプロセスと、意思決定のスピードの
どちらを優先すべきかという論点に着目することに、
意味があるのではと考えます。



※もちろん議論の内容以前に、誰が議論の場を設定し、
どんなメンバーが議論に臨み、議論が意思決定のプロセスにおいてどのように
位置づけられているのかといった問題があります。
この問題は極めて重要ではあるものの、
政治的な権力関係や経済的な利害関係が関わる複雑な問題です。
(当面私の手におえないので)ここでは触れません。



だから、議論が表層を滑っているような、
誰もがちょっといらいらするような状況でも、
専門知識を有する者は早々に口を出さないほうがいいのかもしれません。
そうして待っていれば話が面白い方向に転がるかもしれませんから。