【都市】五山送り火問題を考える

陸前高田の松を京都の五山送り火で受け入れるか否かの騒動について考える。

陸前高田の松、一転受け入れ=送り火連合会、批判受け―京都(8月10日/時事通信


東日本大震災津波で流された岩手県陸前高田市の名勝「高田松原」の松を、
京都の伝統行事「五山送り火」の一つ「大文字」で燃やす薪として使う計画が
中止になった問題で、
五山送り火の各保存会でつくる「京都五山送り火連合会」(京都市左京区)は10日までに、
陸前高田市から別の薪を受け入れ、16日の送り火で燃やすことを決めた。
 

福島原発事故による薪の放射能汚染を懸念する声が寄せられたため、
「大文字保存会」(同)が使用中止を決定。
しかし、これに「被災地の思いをなぜ酌めないのか」など、
京都市に対してだけでも900件以上の批判や苦情が相次ぎ、同市が連合会に受け入れを要請。
連合会が協議し、他の四つの送り火保存会が受け入れを了承した。


当初、大文字に使用される予定だった震災犠牲者や復興に向けた思いを
被災者らが書き込んだ薪は、8日に陸前高田市で盆の迎え火として燃やされたため、
京都市は、新たな薪500本をボランティア団体を通じて取り寄せる。 

記事リンク:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110810-00000044-jij-soci



興味深いのは、「放射能の灰が散布されるのでは」という具体的な主張と
「声の大きい「市民」が無体な事を主張している」という形式的な「論調」がぶつかって
後者が前者を凌駕した(ように語られる)こと。



後者の「声の大きい「市民」が無体な事を主張している」
というフォーマットは汎用性が高くて、結構どんな主張でも入ってしまう。
(いわゆる「プロ市民」と批判されてしまう人々の政治活動が、
教育問題、憲法問題、戦争問題など多様であることからもわかるように。)



もっとも両主張はともに、京都市への電話という方法でなされた
「抗議」という共通点もある。報道の多くは抗議件数を対比して、
その多寡が物事に影響を与えているように語られるのも、注目すべきかもしれない。
微に入れば、抗議電話の件数を数えるという営為(?)が
どんな方法と目的でなされているのかも気になるところ。(今更だけど)



とはいえ根本的には、
なぜある地域を中心に運営される物事が
決定→抗議殺到→議論というプロセスで進行していくのか、
という問題が重要かと。
集団でなされた決定を後で変更・内容修正するには様々なコストがかかるので、
決定そのものを問い直す議論はコスト次第で封殺されてしまうケースも出てくる。
「もうほうぼうにオファーを出してしまったから」「スケジュールの制限」
といった、よく聞く言葉で。



そう考えると、今回は決定の方針が変わっただけ、結果的には良かったのだろうか。