子どもの貧困−日本の不公平を考える


子どもの貧困−日本の不公平を考える


  • 概要

日本社会において、これまで子どもの貧困(格差ではありません)は
「一億総中流幻想」「貧しくても幸せな家族幻想」に護られ十分に語られてきませんでした。
そして行政は国際的にみて、子どもの福祉については企業や家族といった中間集団を介してアプローチすることに
力点を置いていたと言えましょう。しかし中間集団の福祉機能が弱体化しつつある現代において、
「健康で文化的な生活」が送れないリスクが真っ先に大きくのしかかるのは、
とりわけ階層下位の子どもような社会的弱者です。さらに虐待、いじめなどの社会問題の間接的要因と
指摘されることもあることから、子どもの貧困への対処は喫緊の社会的課題と考えられるのではないでしょうか。
本書では貧困研究のエキスパートが、日本の子どもの貧困を豊富な実証データで浮かびあがらせ、
子どもを個人として尊重し、人権に配慮した福祉政策を提案しています。


  • キーポイント

本書において最も着目すべきは第3章「誰のための政策か−政府の対策を検証する」、
第4章「追いつめられる母子世帯の子ども」です。
母子世帯における貧困率の高さは、日本はOECD諸国中2位(2005年時点)で、50%を優に越えています。【P111】
さらに日本の母子世帯の就労率の高さは80%以上あり【P109】、多くの母子世帯は
ワーキングプア」と呼ばれる厳しい状況に追い込まれています。
そして長時間に及びがちな労働状況は、母親の心身の健康を損なうリスクを高め、
母子のコミュニケーションを疎外することに繋がるとも指摘されているのです。
※同様の指摘は『生き方の不平等』(白波瀬佐和子著:岩波新書)の一部でもなされています。



このような状況下で、母子世帯の母親が公的・私的に子育ての面で期待できる要素としては
○給付(児童扶養手当子ども手当など)
○サービス(保育所など)
○税額控除
○別れた夫に関する保障(死別:遺族年金、離別:養育費)
○両親の支援
などが挙げられるでしょう。



しかし現状では、「給付」「税額控除」は貧困層の子どもに十分な教育を提供する助けとなるほどの
レベルに達しておらず、サービスは自治体格差(2000年:公立保育所費用の国→地方自治体への財源移譲で拡大)
があり、「別れた夫」「両親」は十分に期待できる人は限られているのに加え、借金の肩代わりや介護など
さらなる貧困リスクをもたらす可能性があるという、「穴だらけ」の厳しい状況にあると言えます。


  • 課題

このような状況を社会はどのように受け止め、どのように解決していくべきでしょうか。
本書で挙げられている提案(本書の著者はイギリスの民間団体「子どもの貧困アクショングループ」の
マニフェストを参照しています」)を含め、以下2点を提起します。



○「就労支援」から「労働環境整備へ」【P228】
…すでに母子世帯の母親は働いているわけですから、「がんばって働け」では何も解決しません。
行政・政策は母子世帯の母親が携わる労働環境に合わせて適切なアプローチ
(企業に対する長時間勤務の規制など)を、集中的に実施すべきでしょう。
しかし同時に、労働環境の変容に伴う低賃金など条件の悪い労働が、
母子世帯の母親を含む生活リスクの高い人々に不当に押しつけられることのないよう配慮し
規制をかけていくことは行政の役割だといえます。



○市場セクター、市民セクターの支援
…上記に関わりますが、行政の税収が滞り、市民の階層分化が進み多様化がすすむ今日において、
保育所の整備一つをとっても、行政がきめ細かく対応することに期待しすぎるのは自重すべきかもしれません。
(土日/深夜まで運営する公立保育園を、全ての自治体が十分なレベルにまで整備することができるでしょうか。)
このような柔軟性を、市場セクター(企業等)や市民セクター(NPO)が発揮し、サービス提供を担うことへの期待は
高まっているのかもしれません。彼らが動きやすいような環境を整備し支援することは、
行政ができることといえるでしょう。



なおこういった議論がなされる際、慎重に避けるべきは「自己責任論」と「ポジショントーク」です。
「自己責任論」には「母子家庭になるのが嫌なら離婚しなければ良い。」といった主張があります。
しかし離婚など現代においてはだれにでも起こりうるリスクとして捉えるべきですし、
離婚に至る要因は様々です。母親にだけ責任があるとは必ずしもいえないでしょう。
そもそも親の離婚によって、子どもが貧困にさらされ、幸福が脅かされることに正統性があると言えるでしょうか。



一方「ポジショントーク」は特定の偏った立場から社会的問題を語る態度で
「私の若いころはおかゆといもの葉っぱだけ食べていた。それに比べると今の子どもは貧しくはない。」
といった主張です。(極端な例ですが…)
この主張は本書でも扱われているように、貧困が相対的なものと定義され、それに基づき社会設計がなされる限り、
正統性が認められません。つまり貧困が相対的であるということは、時代に応じた貧困の姿があるということです。
(今日100円のハンバーガーを毎日食べさせられる子どもが、貧困状態でないと言えるでしょうか)



子どもの貧困は社会的な問題であり、家庭や企業へ過剰な期待はせず、
全ての社会が考えていかなければならないテーマです。
また今日、「自分」が「自分の子ども」を貧困状況に追い込んでしまうリスクには
誰もが直面していると考えられるのではないでしょうか。
そのように考えるとやはり、私たちは貧困を身近な問題として捉え、
文字通り貧しい「語り」に騙されないことが肝要だと思うのです。

ザ・フェミニズム


ザ・フェミニズム


  • -概要

現代日本フェミニズム史に名を残す2名の論者によって、2001年にリリースされた対談集です。
70年代以降の日本フェミニズムにおける論点の変遷が、
お2人のアプローチの違い、個性からなるかけあいから浮かび上がってきます。漫才のようで面白いです。


  • -考察

政治思想としてのフェミニズムは、「個人的なことはすべて政治的である」という
70年代ウィメンズ・リブのスローガンに象徴されるように、
※ただし、本書のなかで論者はリブとフェミニズムを分けています。
他の政治思想と比べても私的領域を戦場として展開することが多かったのではないでしょうか。



さらにジェンダー(社会的な性)・セクシュアリティ(肉体的・性的嗜好としての性)という
2つの価値をめぐる重要概念が錯綜するがゆえに、良くも悪くも個人のありかたをめぐる論争としても過熱したと言えるのかもしれません。
それがフェミニズムについて世間が「誤解」することに繋がってしまったのではないか。
本書において両論者は、フェミニズムの多様性を議論のなかで提示することで、その「誤解」を解こうとする意思を表しています。



本書において最も重要な対立軸としては、以下であると考えます。
1:ジェンダーは政治的・社会的に広く議論し、セクシュアリティは私的領域にとどめる立場
2:ジェンダーセクシュアリティはあわせて政治的・社会的に広く議論するべきという立場



本書の定義で1は「結婚しているフェミニスト」「リベラル・フェミニズム
2は「シングル派のフェミニスト」「ラディカル・フェミニズム」が該当します。



本書では日本のフェミニズムがこれまで、1の議論に支配されており、
個人の自由を求めるフェミニズムは、国家や制度(結婚)によって縛られるのではなく
性の自由も個人のもとに置かれるべきだ、という2の議論が不当に抑え込まれたという指摘がなされています。



確かにその通りで、これまで2を求めるリアルは、
週刊誌などのセックス・セックスレス特集などで、サブカルチャー的に語られてきた節があります。
そう考えると、セクシュアリティジェンダーは広く、複合的にもっと論じられるべきかもしれません。



その上で2の議論と現代社会の政治的・社会的状況を照らし合わせると、問題も浮かび上がります。
それは今日の階級的格差の拡大によって、低賃金の労働に押し込まれ、
一生を一人で過ごすという人生設計がしにくい階層中下位の人々は、2の立場をとるどころか、
生活リスクをヘッジするために「女らしさ」を磨いて結婚相手を探すという戦略が「現実的」になることです。
※階層上位の人々は「学力」「コミュニケーション能力」「文化的資源(趣味など)」を武器に
シングルで生きるにせよ、結婚するにせよ、生活リスクをヘッジすることがしやすいと言えるでしょう。



「それのどこが問題なのか?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。俗な言い方をすれば
・もてない(性的魅力のない)階層下位の女性が社会的に排除される。
・「男らしさ」は依然として、労働環境での既得権益として保存される。
このような事態が進みうると思うのです。


  • -課題

思想としての日本のフェミニズムは、高まる現代日本人の生活リスクにどのように対応するのでしょうか。
またグローバル化がますます進むなか、多様化するエスニシティ(民族意識)をもつ市民にどうアプローチするのでしょうか。
今日の状況を踏まえて「男らしさ」とその解体戦略をどう考察し、進めるのでしょうか。
自由を求めるフェミニズムは「強者の思想」と揶揄されることもあります。
しかし今日までの成果を踏まえ、幅広く「お客さん」を獲得し、便利に使ってもらえるよう
進化を遂げることができれば、フェミニズムの重要性はますます高まるに違いありません。