【地域】伝統仏教の衰退と上方落語の復興

先日、亡き祖母の四十九日法要がありました。
そこでの出来事から。



祖母の家は岐阜市の郊外にあるのですが、
当地域では葬儀・告別式こそ葬儀会社の会場を使うものの、
以降の法要は自宅に僧侶を招いてとりおこなう家庭が多いそうです。



わたしたちのケースも例外ではなく、
家にお坊さんを呼びます。
宗旨は浄土真宗本願寺派
今回も「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の浄土三部経
蓮如上人の「御文章」、法話と続き、法要はお開きとなりました。



兵庫県山間部の真宗寺院のお生まれという若いお坊さんの
法話はわかりやすく、興味深いもの。
たとえば、「親指は小指の方を向いているが、子指は親指のほうを向いておらず
まっすぐ前に向いている。
このように子(衆生)は世俗の論理にふりまわされ生きるのに懸命で、
阿弥陀様の存在に気づいていないが、そんな者どもも阿弥陀様は
あたたかく見守っているのだよ」というネタ。
「ああ、そうなのかな」と言いたくなるような話を聴くことができました。
(それらのネタをノートにまとめていらっしゃったのは意外でしたが)



このお坊さんのように、浄土真宗の僧侶は昔から、
無学の者にもわかるように噛み砕いて、
釈尊のことばを大衆に向けて語りかけてきました。
彼らには説法を非常に重視する伝統があります。
その伝統は現代では、報恩講に代表される大規模な法話や講演、
出版(明治〜昭和では暁烏早、現代では釈徹宗さんなど。本願寺出版社なども。)
というかたちで引き継がれているようです。



ところが、昨今は浄土真宗を含む伝統仏教の衰退や
存在感の低下が叫ばれて久しい。
「お寺の子がお寺を継ぐ」世襲にともなう人材の固定化、
教団組織の硬直性、檀家システムへの依存、
戒をまもらぬ僧侶によって与えられる戒名の問題などは
よく耳にするところです。
なかでも「僧侶派遣会社化」、
つまり僧侶が葬儀にしか関わらず、
人々の日常的な心の悩みに向き合わないばかりか、
その葬儀の運営すら葬儀会社に頼る現状への批判は、
教団内外で強い様子。



これらの批判は、伝統仏教内部の怠慢から提起されるものばかりでないだけに、
現代のお坊さんは気の毒なところもあります。
都市化→核家化に伴うイエの分断、
葬式講を展開してきた地域社会の弱体化などが大きく
伝統仏教の衰退に関わっているのは間違いないでしょう。



とはいえその社会構造の変動に、伝統仏教が対応できなかった。
地域社会が解体していくなかで檀家システムに替わる
信徒の組織化システムを構築できなかったこと。
(創価学会など新宗教は、信徒一人ひとりまで行き届いた綿密な組織を構築し
伝統仏教の隙を突いた)
そして寺院空間がお坊さんの「家庭」に特化してしまい、
地域住民の日常的な信仰表現の場としての寺院が公共的な性格を失ってしまったこと。
突き詰めていえば、伝統仏教が日常的にコンテンツを提供するための
「ネットワーク」や「場」を失ってしまったことは、
致命的だったのではないでしょうか。



伝統仏教法話や説教、経典のコンテンツをブラッシュアップしても、
それを効果的に提供するネットワークや、
信徒が日常的にコンテンツに触れることができる「場」が限られていれば
かれらの存在感は失われていくでしょう。



ところで、僧侶の辻説法から生まれたと言われる上方落語は戦後、
庶民の娯楽が多様化するとともに、大阪の寄席が次々と消滅、
噺家が数名というところまで衰退しました。
そこで、亡き名人達は懸命な努力によって弟子を育てながら、
教会(島之内寄席)やホール(トリイホールほか)、
商店街の個人経営店など地域に働きかけ、
噺家が落語をする「場所」を守った。
それが現代の「天満天神繁昌亭」という定席の復活、
「落語ブーム」につながっています。



現代の日本はもはや、上方落語が奮闘していた時代とは異なり、
多大なコストをかけずともネットワークや場を整備する環境が整っています。
伝統仏教がいま取り組む課題は、はっきりしているのです。