【読書記録】家族を容れるハコ 家族を超えるハコ


家族を容れるハコ 家族を超えるハコ
上野千鶴子(著)
平凡社



上野千鶴子さんといえば日本を代表するフェミニストですが、
近年はライフワークの女性・家族研究を軸に、
ナショナリズム研究、ネットワーク研究と仕事の幅を拡げていらっしゃいます。
また領域横断的に、他の社会学者、非社会学の研究者、
企業などとコラボレーションする志向も強い。
本書もその成果の一つです。



社会学者・上野千鶴子山本理顕隈研吾といった
第一線で活躍する建築家のあいだで交わされる刺激的な議論。
社会学と建築・都市工学をつなぐ稀有な試みといえるでしょう。
※本書も本稿も、読まれて気分を悪くされる方もいるかもしれません。
社会学の研究者はこういうことを考えたり言ったりします。どうかご海容ください。



○家族を容れるハコ?
「家族を容れるハコ 家族を超えるハコ」という
特異なタイトル。一体何を意味しているのでしょうか。



高度経済成長。
その背景には様々な要因が指摘されますが、その一つに
戦後直後、戦地から引き揚げてきた農家の二男・三男(非跡取り)といった
農村の余剰労働力が、成長産業の第二次産業(重厚長大産業)に
効果的に流れこんだ(配分された)点が挙げられます。



つまり、高度経済成長期には、
農村から都市への大量の人口流入といった大きな変動があったのです。
ところが戦後当時、その大量の人口を抱えるだけのインフラが
都市にはなかった。そこで、都市の住宅不足解消という重要な命題を背負ったのが
日本住宅公団都道府県が供給する集合住宅(いわゆる「団地」)でした。



こういった集合住宅はそれほどゆとりのある空間ではなく、
ほとんどが同じような意匠をした「ハコ」のようなものでした。
また居住していたのは若い夫婦や、若い夫婦と幼い子供の家族、
言い換えれば、これまでの祖父母がいる「拡大家族」(二世帯・三世帯)から
切り離された「核家族」。
つまりタイトルの「ハコ」は集合住宅、「家族」は「核家族」を指しているのです。



○「51C型」と「nLDK」
さて日本の住宅、とりわけ集合住宅の「間取り」は
「nLDK」というプランが大勢をしめています。
このプランは、日本住宅公団が1951年に設計し、
その後多くの公団住宅・民間集合住宅のあいだに広まった
「51C型」という住宅の標準規格と、その成立を同期していたと言われています。



「51C型」という規格は、従来の農村家屋とは違い、
「食寝分離」「生産と消費の分離」という原理を基本としていました。
「食寝分離」は食事も就寝も大広間のような同じ空間で
家族皆がするという住み方から、食事は食卓、就寝とセックスは寝室と
用途別に用意された空間でするという住み方への転換。
※従来の農家では、若夫婦が舅姑の視線をくぐってセックスをするのが
大変だったそうです。
「生産と消費の分離」は、農作業などの生産に必要なスペースが
確保されていた住宅空間から、「住む」「食事する」「寝る」といった
消費に特化した住宅空間への移行。
このように「51C型」は、戦後の新しい住み方を思想的に体現するモデルだったのです。



一方「nLDK」というモデル。
周知のとおりnは個室の数、
LDKは「リビング・ダイニング・キッチン」(食事と家族交流のスペース)を指します。
このnは「家族の人数−1」で算出されることが多い。
つまり、家族のなかで一人は部屋をあてがわれない者が出ざるをえないということです。
上野は日本の戦後過程でその役回りを演じたのは「お母さん」(専業主婦)。
であったと言います。「お母さん」だけの居場所はなかった。
お母さんがいれるのは「夫婦の寝室」と「リビング・ダイニング・キッチン」だった。



「お父さん」は家では「飯」「風呂」「寝る(セックス)」だけをして
仕事は外で。「お母さん」は家で家事と育児、セックスを「専業」。
「子ども」は子ども部屋を与えられて兄弟は同居。外では遊びと勉強。
上野は現実はさておき、理念としてはこのようなモデルが、
日本の戦後の「標準家庭」であり、その成立に「51C型」「nLDK」が
与えた影響力を指摘します。



※しかし、「51C型」の生みの親である建築家の鈴木成文さんは、
「51C型」と「nLDK」は理念のうえで似て非なるものと主張しています。
詳しくは『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』(平凡社)にて。



○近代家族の変化
しかし、80年代頃顕著に、核家族は大きな曲がり角を迎えます。
高齢化と少子化の進展といった大きな人口変動傾向の変化。
高学歴化に伴う女性の労働市場への参入といった就労構造の変化。
成長した子供の流出、離婚、死別などの生活の変化。
このような変化は、「ひとり親家庭」「独居老人」
DINKS」(double income with no kids:子どもを持たない夫婦共働き家庭)
といった「非標準家庭」の割合が、標準家庭の割合を上回るように
なってきます。



また、成長を続ける都市の外食産業と性産業の影響もあり
家庭の「食事」「セックス」が相対的に家の外へ流出していきます。
言い換えれば、必ずしも家だけで食事やセックスをする必要は
無くなっていった。不倫は当たり前に。
夫婦のセックスレスから「夫婦別寝室」も当たり前に。
こうして家は次第に高齢化に伴い深刻さを増す「介護」と
「育児」の空間として特化されていきます。



上野はこうした家族や人々の「住み方と意識の変化」と
時代の変化に伴う人々の住宅ニーズ(介護や育児)に
依然として「51C型」「nLDK」を生み出し続ける建築家が
新しいモデルを提示できていないと、その「怠慢」を指摘しています。



一方、山本や隈といった建築家も、上野の主張に反論しつつも、
住宅に住む者による「空間の使われ方」にあまり関心を持たなかったこと
建築家がこれまで自らの理想に基づく空間を、
公団・行政やデベロッパー(住宅のクライアント)のみとの折衝で
生み出し続け、住民が住宅に求めるニーズを直接聞く機会を失っていたこと
(建築家の「作家主義」の弊害)を認めています。
そして児童虐待や老人虐待といった家庭内で噴出しがちな問題や、
住宅を生産の場として使いたいというニーズに応える
非常に興味深い知見や住宅プランを提示しています。



○考察―家族の社会化をめぐる是非―
論点と知見が豊富な本です。一点だけ触れておきます。



上野は上記のような家族の変化に、
個人の家族や会社からの自立という肯定的な側面を見出しています。
また、(本書が上梓された2002年以降も)変化は続き、
いずれシングルを基本とした人生と社会システムの構築が必要となると
述べています。(『おひとりさまの老後』などを参照)



そして個人は家族(血縁)や地域(地縁)、会社(社縁)に縛られず
気の合う人にどんどんアクセスし(選択縁)、
介護や育児を家族で囲い込まず「他人」にどんどん開くことで、
家族の多様化・社会化を提唱しています。



こうした上野の主張は、自由で自立的、非依存的な個人を想定している
「強者の論理」ではないかという批判がありそうです。
実際には上野は本書で、「依存的な他者をどうケアするか」という問題と
真摯に向き合った結果、このような主張をしています。
この批判をどうとらえるか。



私は上野の考えに惹かれる一方、
このような考え方に「強者の論理」と反応する方の気持ちもわかるような気がします。
なぜなら、低所得者、老人や子供、障害者といった「社会的弱者」のなかには、
選択縁を拡げて生活のリスクヘッジをする能力と能力開発の機会に
恵まれないからこそ、弱者の立場に置かれている人も多いと思うから。



またそういった人たちは、家族(血縁)や地域(地縁)、会社(社縁)といった
従来生活リスクをヘッジしてきたものへのアクセス回路を断たれているからこそ
弱者として生きざるをえない側面もあると思うから。
(とりわけ「生活保護の申請もできずに、姉妹・親子で飢死」といった
ニュースを耳にするたびそう感じます)



日本の福祉は介護保険制度や生活保護制度を見ればわかるように
「申告(申請)主義」をとっています。
つまりセーフティーネットを求める者のみが恩恵にあずかれるシステムが
基本となっているのです。
このようなシステムのもとでは、「強いられたおひとりさま」を
救済できないという現実。



もちろん、上記の様々な縁にアクセスする能力と余地を有しながら
「自分で主体的に選択して」孤独な生き方をする人もいるでしょう。
そのような人の生は、たとえ世間が「孤独死」と言いたてても
私たちは尊重するべきでしょう。孤独に死ぬこと自体はある意味真理ですし
悪いことでもありません。
しかし「親に頼りたくても頼れない」「ご近所に窮状を言えない」
「行政に相談できない」で飢えや孤独にさらされる人たちが、
そうならざるをえない社会関係の齟齬や心理的な障壁がなぜ生じるかは、
セーフティネットの整備と合わせて追究しなければならないのではないか。



「強者の論理」に対抗し、家族や地域、行政や国家の重要性を唱える
「弱者の守護者」は常に存在します。
しかし彼らは「家族を復権せよ」「地域みな仲良くせよ」
「国家を重んぜよ」と唱えることは熱心だが、
社会の現実に即した「弱者」を護る効果的で説得力のあるメニューを
提案できていない側面がありはしないか。
それが現状なら、たいそう不幸なことではないか。
規範は規範を訴えるだけでは変わろうはずもありません。



そもそも、家族や地域、行政や国家(法制度)を拘束的であると感じ、
「行きづらさ」を感じている人間や集団が、よりよい生を追求する自由は
たとえ彼らが「強者」であっても、強者であるという理由だけで
阻害されるべきではありません。



上野が論じるように、今も幾多の家族が解体し続けていて
食事やセックスだけではなく、「介護」や「育児」を抱え込むことも
できなくなっているのは現実です。
だからこそ「介護保険」や「子ども手当」が政策として登場したのでしょう。



重要なのは介護や育児というある種の負荷に対して、その程度を
現実的に見積もり、家族、地域社会、行政/国家、選択的なつながり(NPOなど)
という集団にどう配分していくかを考えること。
「家族の社会化」という方向自体は、その一つの答えではあるように思います。



○要点―建築家と社会学者のちがい―
「住宅」という空間の創造を命題とする建築家と
人々によるその空間の使い方を問う社会学者。
建築家は、理念に基づく空間の創出によって、
人々の生活や規範(こうすべきだという考え)をも生み出すことができると考えます。
一方社会学者は、人々の規範と実践(空間の使い方)には常にギャップがあり、
人々は実践に合わせて空間を改変することができると考えます。
(具体的な事例では、「nLDK」のLDKで食事をせず、
nでそれぞれ一人ずつ分かれて食事をする家族)



図式化すれば、



建築家:空間→規範→実践
社会学者:実践→空間→規範


と、それぞれの創出原理をまったく違う方向で考えているということが言えます。



これは、どちらの考え方が正しいということではありません。
新しい空間が人々の規範や実践に影響を与えるということは
上野自身が認めていますし、(「nLDK」「51C」が家族関係を変えた)
実践(人々の現実・本音)に沿った空間が改変にも限界があること、
また「実践のとおりに空間を生み出してしまっていいのか」という
倫理的な問いもありましょう。



とはいえ重要なのは本書において



①空間は人々の社会関係に影響を与えるひとつのツールにすぎないという点
②人々は物理的空間を超えて社会関係を改変・構築することができるという点
(「情報空間」とその装置を使った「つながり」構築は現代人の日常です)
③空間の創出には(建築家だけではなく)実に様々な人々の利害が反映されている
という点、言い換えれば人々の社会関係が空間を創出しているという
側面もあるという点



が浮かび上がっているということです。



これらの指摘は何だか当たり前のようにも思います。
しかし「たかが建築」という現実を、建築に関わる全ての人々が認めてこそ、
その次に控える「されど建築」という建築や都市空間の未来を
わたしたちは展望しうるのかもしれません。



皆さんはいまどんな住宅空間を生きていて、
どんな住宅空間を生きたいでしょうか。