【都市探訪】栃木県宇都宮市(その2) 〜地域社会の価値とは〜

【前回までのあらすじ】
宇都宮駅に着き、東口の公共交通について考え、ギョーザを食べました。



宇都宮駅西口です。
有名な「ギョーザ像」を尻目にころして、大通りをずんずん進みます。
中心市街地までは駅から徒歩10〜15分ぐらい、
アーケード街やパルコなどを中心に多くの人で賑わっています。
(※U字工事の言うとおり「都会の香りがする」街です)



そんな街中にあったのが、「二荒山神社」。
「ふたあらさん」と親しまれる宇都宮の総鎮守です。
長い階段をのぼり、ハトの低空飛行での襲撃をかわしつつ、参拝をすませます。
眼下にはオープンスペースと、その左右にある大きなビル2棟。
「宇都宮表参道スクエア」という市の機関が入るオフィスビル
「シティタワー宇都宮」という大手デベロッパーが展開する高層分譲マンションです。




「シティタワー宇都宮」




「ふたあらさん」の周辺は、宇都宮市の再開発の対象になっており、
その結果として2つの高層ビルが建てられたとのこと。
そして、この再開発は行政や政治家、地権者のイニシアチブで進められ、反対運動も起っています。



再開発地にこのようなハコモノや高層マンションが建てられる例は
枚挙に暇がありません。それだけ、行政や地権者にはメリットがある手法なのでしょう。
このケースで特徴的なのは、宇都宮の総鎮守である「ふたあらさん」を、
2つのビルが「見下ろしている」という象徴的な「空間の再編」です。



地域の価値を体現する「鎮守様」が浸食されている。
そのように感じる地元の人から、こうした反対運動が生じるのでしょう。
私たちがコミュニティの価値を考えるとき、その価値は空間的に顕れている。
行政・政治家・企業・住民…これら地域のプレイヤーをめぐる権力関係は
目にみえるものなのかもしれません。



アーケード街に彷徨いこみます。
冷たいものが食べたくなりかき氷を食べに入ったカフェは、
地元商工会議所が運営するアンテナショップ「宮カフェ」でした。



こういったアンテナショップはどちらかというと、垢ぬけない印象がありましたが、
「宮カフェ」は木目調でおしゃれな内装です。
地場の食材を手軽に買えるだけでなく、使ったパスタやスイーツが食べられるということもあり、
店内には女性の姿が目立ちます。
(小太りで汗だくの僕はかえって浮いてました)
また「宮カフェ」では「宮コン」という、市内の飲食店を舞台にした婚活イベントもやっています。
地元で友達を探したり結婚したりしたい人にはいいだろうなあ。



また「宮カフェ」を中心にして、宇都宮市
「住めば愉快だ宇都宮」というブランドメッセージも発信しているそうです。



興味深いのがそのブランドメッセージの策定プロセスです。
その策定メンバーは商工会議所、公募の市民、地元企業、地元メディア、行政から構成されています。
加えて、それぞれの過程でワークショップや講演が展開されたそうです。
「地域の価値」を様々な立場の人が考え、問い直し、再構築する作業といえるでしょう。



今日、世界規模での都市間競争がはげしくなるなか、多くの都市がキャッチフレーズを設定したり、
都市イベント(万博やオリンピックといったメガイベントなどが代表的)を開催したりしています。
しかし、行政が安易に考えたもの(「ゆるキャラなど」)や
広告代理店にまる投げされたものがほとんど、というのが現状でしょう。



「わたしたちはこの街のどんなところを大切にし、語り継いでいくべきのか」
そんな問いは、特定のプレーヤーのみが考え、実現していくものではなく、
地域に関わる全ての人が参画すべきものではないでしょうか。
現在、宇都宮市はこのブランドメッセージのもと、「ジャズ」や「カクテル」の街としても
市民や行政、企業が連携しつつ情報や価値を発信しています。



不和、摩擦、調和、創造。
さまざまな想いが絡み合う複雑さと力強さを宇都宮から感じました。
次回は、福島県へと足を運びます。

【読書記録】居住の貧困


居住の貧困 (岩波新書:本間義人著)



賃貸住宅を探すとき、
「家賃がもう少し安ければ○○が出来るのに」「なんで初期費用だけでこんなにお金がかかるんだろう」
と思ったことのある方はいらっしゃるでしょうか。
また家族に恵まれ、しかるべき広さの住宅を探す際、
自分の経済力とその住宅価格によって、自ずと選択肢が決まってきてしまうという現実に
不条理を感じたことのある方はいらっしゃるでしょうか。



本書は専門家による住宅政策に関する本です。
日本政府や地方自治体、企業は基本的人権である「住む権利」がいかに考えてきたのか。
どのように政策展開がなされてきたのか。本書では、そんな日本の住宅政策の歴史を振り返ることができます。


  • 概要

本書での著者の主張は以下の通りです。
・住宅政策は本来基本的人権として、市民の「居住権」に配慮するものであるべき。
・住宅政策は労働政策、福祉政策密接にリンクさせ、共通の思想・デザインのもと展開されるべき。



著者は「ネットカフェ難民」や「ホームレス」といった方々が、
経済力が弱いからという理由で、適切な広さの住宅にありつえない現状を批判しています。
そしてその背景として、本書では、住宅の社会保障セーフティネットとしての側面より、
産業的側面、金融資産としての側面に配慮した日本の住宅政策と、
結果としてのいびつな住宅供給と住環境の現状が指摘されています。



日本の住宅市場は巨大で、現実としてそれで生活を支えている方も多いという側面は無視できません。
またこの市場の力によって、高所得者は豊かな住環境を享受することができます。
しかしこうした市場偏重の状況では、安価な住宅は十分に供給されず、
社会的弱者が排除されてしまう危険性は明らかでしょう。
経済的側面を重視するあまり、日本の政府や自治体は安価で適切な広さの住宅を市民に供給する
責務を放棄してきたと、著者は義憤すら感じられる語調にて主張しています。


  • 考察

戦後日本の行政は、具体的に本書の主題である住宅、道路・上下水道といった都市インフラ、
バスなどの公共交通、ごみ処理、消防・救急などの公共財・公共サービスの供給を担ってきました。
しかし、これらのサービスの行政による非効率的運用が問題視され、
その多大な利権を狙う経済界による要請もあり、「規制緩和」「官から民へ」というスローガンのもと、
1980年代以降、多くの公共財の供給から行政は身を引いています。



しかし行政が供給を担っていた公共財はすべて、「平等性・非差別性」が期待されるものでした。
つまり誰でも公共財の恩恵を受けられ、社会的弱者が排除されないことが保障されていたのです。
規制緩和は、そんな公共財のセーフティネットとしての領域にまで踏み込んでしまったとも言えるでしょう。
住宅は、まさにその領域だったのかもしれません。


とはいえ上述のように、行政の財政状況が危機にさらされるなか、
非効率的で不要な公共財の供給にはメスを入れていかなくてはなりません。
またその非効率性が、市場セクター(企業)や市民セクター(NPOやボランティア組織など)によって
解消され、公共財が充実する余地は依然として残されています。
重要なことは「誰が」「どの」公共財を供給すべきかという点でしょう。



詳述するなら今後私たちは公共財やサービスを提供する主体として、
行政・市場・市民といった各セクターがそれぞれ「得意」としていて、担うのが「有効」な領域はどれなのか、
という議論を、今日の情勢と照らしあわせて再展開する必要があるのでしょう。



そしてそれぞれのセクターに役割を分担していく。
その上で各セクターを支援・管理する主体として中央政府と地方政府のどちらが適しているかを考える。
(「事業仕分け」などはこうした観点で進められている…はずです)
価値が多元化する今日、特定のセクターや中央政府に偏らない、「小回りのきく柔軟な」公共財の供給が求められています。
どんな主体が担うにせよ、広い家が安く、手軽に、どんな人にも供給される社会であってほしいものです。

【都市探訪】栃木県宇都宮市(その1) 〜都市の公共交通〜

前橋から宇都宮へ向かいます。JR両毛線宇都宮線を乗り継ぎ、2時間とすこし。
どうやらその日は小山くんだりで花火大会があった様子で、
車両内は祭りの華やいだ雰囲気で満たされていました。そして子どもは窓をじっと見つめる。外真っ暗なのに。



宇都宮市です。
宇都宮といえばギョーザ、ギョーザといえば宇都宮。
そんな形容がなされるぐらい名高い宇都宮のギョーザですが、
そもそもは宇都宮市近郊がニラの名産地であり、良質の豚が生産されることから、両者が結びつけられたのだといわれています。
こんな農業都市としての一面と、北関東最大・50万都市としての一面。
宇都宮は現在も私たちに、そのたくさんの顔をみせてくれています。



※ウィキペディア様のデータはこちら
参考文献:『地域再生の罠』(ちくま新書)久繁哲之介著



宇都宮駅に降り立ち、まずは駅前のレンタサイクルの駐輪場を訪れます。
市街地側の西口にあった駐輪場では既にレンタサイクルの空きがなく「NO」。
「東口ならやってるかもしれない」とおじさんに言われやむなく東口の駐輪場に向うも、そこでも「NO」。
諦めて徒歩で散策することにします。
宇都宮駅東口はオフィスビル、飲食店、ホテルなどは点在していますが、広大な空き地があり、
典型的な駅前再開発候補地の機運がたちこめています。
そんなことを考えていると、目に入ってきたのがこんな看板。






宇都宮市は現在、LRT(Light Rail Transit)の導入を計画しているようです。
早い話が、次世代型の路面電車のようなものでしょう。
LRTといえば富山市の取り組みが有名で、まちづくりの有力政策として、現在様々な自治体で導入が検討されていると耳にします。



一昔前まで、路面電車はあらゆる大都市・地方都市で走っており、市民の日常の足として活躍していました。
現在も松山市鹿児島市高知市といった地方都市では、新旧ないまぜの路面電車を目にすることができます。
しかし日本では高度成長期に、多くの都市は路面電車を廃止しました。背景として挙げられるのは、
自家用車の隆盛と郊外化(居住域の拡大)に伴う乗客の減少と路面電車運用コスト増。
その後、上記の現象がもたらす別の作用が指摘されはじめます。
郊外に進出したショッピングセンターは中心市街地の空洞化を加速化させ、
郊外住宅地の拡散は自治体のインフラコストの増大につながり、自治体予算を圧迫しているというのです。
(特に富山などの雪深い地域において、除雪作業の範囲が拡がることでかかる負担は膨大です。)



コンパクトシティ」という現在の駅前再開発、中心市街地活性化の根拠となる概念は
このような副作用へ対応するために、現在多くの自治体によって掲げられています。
LRTもその理念を実現するための政策として導入が検討されていると文脈を理解することができるでしょう。
具体的な効果としてLRTは、お年寄りなど交通弱者への対応(公共交通の廃止インパクトは交通弱者に集中する)、
中心市街地活性化(郊外から中心市街地へ導線を引く)、環境負荷の軽減(自家用車使用の抑制)が
期待されているようです。



こうしたトレンドであるコンパクトシティの概念を「郊外切り捨て」「中心市街地の利権への配慮」
「新たなハコモノ建設の口実」と批判する論者もいらっしゃいます。
ただし、歴史をひもとき、(田中角栄の『日本列島改造』や中曽根康弘の『アーバンルネッサンス』などを例にだしつつ)
「地方都市が関わる行政にとって、あらゆる概念や理念は所詮利権の隠れ蓑であり、
開発の欲望をかなえる打ち出の小槌にすぎない」とシニカルに再批判するのは不可能ではないでしょう。



このような態度は都市政策を議論するうえで一見まったく建設的でないようですが、
すすみゆく現実についての「善悪のジャッジ」をあえて留保し、
今まさに不条理な負担を強いられている市民へ必要なアプローチを議論することにつなげることができれば、
戦略的にとってみてもいいのかもしれません。特にさしせまった危機を抱える社会的弱者が存在する場合においては。
政策のメリット・デメリットを冷静に見積もり、早いスパンで実行に移していく必要があるのであれば。



この立場にたてば、LRTの駅も通らない郊外の、高齢化が進む集合住宅の住民に対する交通手段の提供はどうするか、
LRTに中心市街地・郊外双方の住民がよりメリットを見いだし、使ってもらうようにするには何をすればいいのか、
LRT導入に際し、自家用車の誘導政策をどのように考えるか、といった現実的でかつ即効性のある議論を
矢継ぎ早にすすめることができるでしょう。
※そんな議論はここでやっています。



話がいつのまにか公共交通から大きく逸れてしまいました。
しかし都市を生きる我々にとって、公共交通政策をどう捉えるか、その効果をどう見積もり実践するかは、
コミュニティの価値にまつわる議論と無関係でないどころか、密接に結びついています。
おそらく、どちらを先にするのかというだけの違いでしょう。



実を言うとここ東口では某有名店でギョーザをたらふく食べただけなのです。
次回は西口を散策し、コミュニティの価値について考えます。

【都市探訪】群馬県前橋市 〜駅をはさんだ「攻防」〜

今回は群馬県前橋市です。
当初私は、工業集積地区であり、在日外国人が多く住むという点で、社会学的に注目を集める伊勢崎市・太田市を訪れる予定でしたが
自らの肉体と公共交通機関のみに頼る自分の旅行スタイルで、モータリゼーションの進んだこのような都市を
探索することに限界を感じたため(大宮から朝イチで着いてから気づいた)急遽前橋を目指すことにしました。



前橋市群馬県の県庁所在地ですね。
しかし隣接する自治体としては高崎市があり、
人口規模や行政、商業などあらゆる面でライバル関係にあるといわれます。
その文脈で高崎は「経済」の中心、前橋は「行政」「文化」の中心と称されますが、
実態はどうなのでしょうか。



※ウィキペディア様のデータはこちら



さて前橋駅に降り立つと、けやき並木が影を落とすメインストリートが伸びています。

夏の時分はとくにさわやかな景観ですが、駅前のホテルや商業施設(イトーヨーカドー)は
多くがシャッターの閉まっている状況です。活気や治安という面では問題を抱えているのでしょう。



駅の近くには市がレンタサイクルを運営している駐輪場があり、
渡りに舟とばかりに訪れてみます。なんと19時まで借りられてたった200円!



中心市街地までは自転車で10分ほど時間を要します。
川沿いの道を走ります。広瀬川という利根川水系の疎水なのだそうですが、
雨上がりでもないのにものすごい水量です。都市河川についての常識が壊れていきます。

さらに進むと中央通り商店街に行き着きます。
この商店街を含め、前橋市中心市街地は空洞化が叫ばれ、問題視されることも多いようです。
訪れてみると確かに、全ての店舗がオープンしているわけではなく、「盛況」とはいえない状況ですが、
夏休みということもあり、子どもと親御さんの姿が多く目に入ります。
どうやら地元のJC(青年会議所)がイベントを実施しているようです。
そのイベントでは地域通貨を発行しているようで、それでかき氷を買い頬張る親子も。



中心市街地というのはつまるところ自営業者の相互扶助コミュニティですので、
担い手の再生産が将来のゆくえを左右します。また、消費者も域内で再生産(世代を超えてファンをつくる)する必要があります。
地域に若者が定着するか、ということは商店街だけの課題ではありませんし、
商店街の隆盛が若者を引き付ける唯一の要因というわけでもありませんが、
子どもの記憶に訴え、子どもに「投資」することは、非常に意味のある施策であると感じます。



また中央通り商店街には、買い物客の利便性と快適さを追求するさまざまな工夫がこらされています。
写真は「グリーンウォーク」です。



グリーンウォークとは並行している商店街の通りを、植栽やベンチでかざったパス(小径)でつなぐものです。
このようなパスがあれば買い物客は遠回りすることなく、商店街の店舗をまわることができます。
いま古い商店街では、空き店舗や未利用地を商店街で共同管理し、
コミュニティスペースや公園に転用するケースが増えていると耳にすることがあります。
このように公園とパスの折衷のような土地利用も考えられるのですね。



商店街を出て自転車を郊外に走らせます。気づけば標識には「高崎市」の文字。
前橋と高崎の市境には大規模な工業団地が点在しています。
北関東において、両市は伊勢崎や太田などの周辺自治体とベルト状に工業地帯を形成し、一大拠点となっている様子がうかがえます。



気ままに自転車を走らせていると、どうやらまた駅に近づいているようです。
すると目に入ってくるのは破壊的なまでに巨大なショッピングモール。
けやきウォーク」と呼ばれるこのショッピングモールは中心市街地とは駅をはさんで反対側にあり、
映画館やスーパー、大型書店など、魅力的なコンテンツを抱えています。経営主体はユニーの様子。



その巨大さとひっきりなしに吸い込まれていく車を見て、
このモールが中心市街地の空洞化問題と無関係でないことは容易に想像できました。
1970年代〜80年代にかけて、かつて日本の都市部や港湾付近に存在していた工場は、
経済のグローバル化の進展による国際間競争、それに伴う土地利用費や人件費の抑制圧力を背景に
郊外の工業団地や海外へと移転されるケースが増えていきました。
そうなれば地元の雇用も失われ、地方自治体は税収面で打撃を受けることになります。
当時としてはこの両面をカバーできる即効性をもつ施策として、こうした跡地への大型ショッピングモールの進出が
検討され、多くが実行に移されたのです。
ところが完成したショッピングモールによって中心市街地の小売は吸引され、多くの商店街が活気を失い
自動車を必須ツールとするこれらの施設は、都市景観を変化させていきました。
ある意味で都市における副作用といえるでしょう。



けやきウォーク」はダイハツ車体の跡地、まさにこのケースに当てはまります。
ということはさきほど訪れた商店街とは駅をはさんで、浅からぬ関係があるのでしょう。



現在は法改正により、上記のような副作用を問題視する声から、このようなショッピングモールの出店規制が進んでいます。
また大型店舗とモータリゼーションによる中心市街地空洞化を問題視する議論は依然として盛り上がっています。
(例えば『ファスト風土化する日本』三浦展氏が展開している議論)



私はこの議論に妥当性があると思いますし、どこでも同じようなモールやアウトレットが拡がる風景に辟易することも多いです。
しかし議論は、個人の好き嫌いの問題ではなく、
「大型ショッピングモールを依然として多くの人々が支持し、利用している現実」
を理解し、尊重したうえで、
「大型ショッピングモールの存在が間接的に引き起こす諸問題」
を慎重に見積もり、対処していくことを前提に進めていくことが肝要ではないでしょうか。
「諸問題」とは具体的に、経済的・文化的ニッチへの圧迫(個人商店や小規模の映画館やホール)、
交通弱者(お年寄りなど)の消費活動の疎外、などが挙げられるでしょう。
このような立場にたつ私は、中心市街地の活性化は上記のような問題の解決に寄与する限り、
手段として求められるのであって、必須事項ではないと考えています。




前橋市は今後、駅をはさんだ両者(商店街とショッピングモール)の利害をどう調整し、都市のデザインを設計していくのでしょうか。
またそのプロセスに、企業や市民はどのように関わっていくのでしょうか。
中心市街地には「げんき21」という公営施設があり、観光案内所等がありますが
テナントはスカスカで、市民利用は進んでいないようにもみえます。
「誰が」「誰のために」「どのような」都市政策を設計するのか。
一部のステークホルダー(利害関係者)に配慮する利権構造を越えた、
全ての市民が納得する制度設計が、この街にも求められているのだと感じます。

【都市探訪】埼玉県川越市 〜幻想とリアルの住みわけ〜

夏休みに北関東と福島の都市を訪れました。
今回の記事を皮切りに、その街の様子をご紹介していきます。



川越市川越藩の城下町として繁栄し、「小江戸」と呼ばれる
歴史的資源の多く残る観光都市です。
2009年春のNHK連続テレビ小説「つばさ」の舞台となった街ですので、
その特徴をご存じの方も多いのではないでしょうか。



一方で川越市は周辺に化学工場などが多く存在する工業都市であり、
30万超の消費を支える商業都市でもあります。
そんな多くの顔をもつ街の姿に迫ってみたいと思います。



※ウィキペディア様のデータはコチラ



歴史的町並みが多く残る地区(一番街付近)には、
中心駅である川越駅から徒歩で15分程度かかります。
その途中で、喜多院成田不動尊といった著名な寺院に出くわすことになります。





成田不動尊では蚤の市が開催されていました。
着物や陶器、掛け軸にレトロなおもちゃなど様々です。
(古いけど渋い虫かごが200円で売っていて、ゆらぎましたが結局スルーしました)
この日は酷暑といってもよい天候でしたが、にもかかわらずたいそうなにぎわいです。
周辺には仏具や古美術品を売る店も多く、このような品物のストックは
古都なだけに十分といえそうです。
またお客さんは観光客、周辺の街から買い出しに来た人、地元の人…
と様々な属性の方から成り立っているのでしょう。
売れるか売れないかはともかく、蚤の市が成り立つ素地はあるのかも…。





一番街の街並みです。地元商工会議所やNPOの努力もあり、
商家の蔵などが保全されていて、なるほど江戸時代の風情を残しているなと思います。
写真の「時の鐘」は街のシンボルになっています。
「時の鐘」は「日本の音百選」に選ばれているのですが、
その選定主体は環境省です。
まったく異議はないけど、どんな基準で選定されているのか気になる…



その後、一番街から離れ再び駅へと戻ります。
その途中の中央通りはかなりの渋滞です。
街のど真ん中に歴史地区があり、その他のメインストリートも昔の面影をとどめていて道幅が狭いので、市内の車通行を制限しない限り、渋滞は当然かもしれません。
道沿いの看板を見ると、ここは現在、道路拡張工事が計画されているとのこと。



さらに進むととたんににぎやかになりました。
川越商店街(クレアモール)です。





空間的にそこまで大きなエリアではないのですが、
商業集積率の高い、にぎやかな商店街です。
特にこのあたりはどうやら若いカップルを中心に、地元の人が行きかっているようです。
東武・JRの川越駅、西武の本川越駅からもほど近く、
両駅のターミナル開発(リブロなどの大手書店やロフト・無印といった商業施設)
とあいまって、一帯は東京のターミナル駅の様子と大差ありません。
郊外の南古谷駅には大きなショッピングモールがありますが、
川越市に関していえば「シャッター街」などの、中心市街地の空洞化問題は
無縁といってよいのかもしれません。



ではあるのですが、その商店街エリアを少し外れると本当に静かな住宅街が広がります。
公園は少ないですが、寺社が多いのでお年寄りはそこで休んでいます。



川越市はそこに集う人の特性を、空間ごとにしっかり分類する戦略が
きちんと立てられている都市といえるのではないでしょうか。
コミュニティの価値を担保し(川越市はこんな街だ!という共同的な幻想)、
観光産業を支えるのは一番街などの歴史地区であり、
30万超の人々の日常を支える消費空間を担うのは商店街や駅前という構図です。
駅から歴史地区にはレトロなバス(小江戸めぐりバス)が直通で出ており、
観光客はそれに乗るにせよ、大型バスに直接乗りつけるにせよ、
商店街のような都市のリアルを視野から排除することができます。



「歴史地区」と銘打っていても、歴史的建造物の保全が十分でなかったり、
区画利用の規制が甘かったりして、「ホントにここが歴史地区なの?」
という街は多いのではないでしょうか。都市のリアルが目に付きすぎるガッカリ感とでも言いましょうか。
その意味で、川越市は歴史的なものを求めてやってくる観光客の夢を壊さない街ともいえます。
それは幻想なのかもしれませんが、その幻想をささえるのはその土地の方々の
熱い想いと明確なビジョン、確かな戦略であることは間違いないでしょう。
その結果、その土地にすむ人々の生活が外部の人間の浸食から守られ、
そこは住みやすい街となるのかもしれません。

人権と国家 −世界の本質をめぐる考察


人権と国家 ―世界の本質をめぐる考察 (集英社新書)


  • 概要

ラカン精神分析理論の旗手と言われるスラヴォイ・ジジェクのインタビュー集+2本の論文です。
ジジェク氏の本は最近、新書としてもう1冊出ていて、気軽に読めますし、こちらもおすすめです。
(『ポストモダンの共産主義──はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』(ちくま新書))
ただ本書もユーモアのある語り口とは裏腹に、内容の難解さは否めません。
※映画の引用部分など私にとってはいまいちよくわからない部分が多いです。
本書はインタビュアーの岡崎玲子さんの手腕もあり、インタビュー部分は特に興味深く、
かつ理解しやすいのではないかと思います。なおジジェク氏の日本体験談は必笑。


  • キーポイント

本書において、ジジェクは左派・コミュニストとして、現代社会の世界体制や秩序を考える上で、
資本主義と、それを支える議会制民主主義とリベラル民主主義の限界を指摘しています。
新自由主義保守主義を除き、上記の両民主主義の対抗軸を見出だしにくい
日本の政治状況・論壇にとっては、傾聴すべき議論と思います。



ポストモダニズムの隆盛、冷戦の終結を経て先進国の政治哲学は
資本主義・議会制民主主義・リベラル民主主義が支配的な地位を占めるようになりました。
私たちはイデオロギーから「距離を置き」、イデオロギーが「終焉」したように世界を感じていました。



しかし周知の通り冷戦以降、環境問題の悪化やテロリズムといった危機やリスクに、世界は悩まされています。
イデオロギー云々は別に、依然として安定した状況にはないのです。
世界各国で多元化した価値が、グローバル経済のもとで不平等な立場にある主体の不満と結びつき、
既存の秩序にNOを突き付けている(例:イスラム過激派のテロやアフリカの民族紛争)と言えるでしょう。
この危機に対し私たちは資本主義・民主主義の支配的状況のなか、
以下の2つのアプローチで立ち向かおうとしています。



功利主義的主体・合理的選択を行う主体をベースにした制度設計をする。
(例:温室効果ガスの排出が加速し生態系を脅かしている→放っておけば経済成長のため、
各国は温室効果ガスを排出し続ける→温室効果ガス排出量に見合った排出削減活動を「投資」によって促進させる
カーボンオフセット」)
○権力の集中・権威主義を回避し、ネットワーク型の権力や多文化主義を模索する。
(例:ゆるやかなつながりを志向し、メンバーの対等な地位と多様性を尊重する、社会運動やNPOなど地域の活動)



ジジェクはこの2つのアプローチに以下の観点からその限界を指摘します。
×不合理で意味のない暴力や破壊(例:原発事故)などは、リスク計算をするすべがない。
×権力構造化を免れる組織や連帯など存在しない。ネットワーク型権力といっても何かをアウトプットする際、
一時的にでも空間的に限定された、集団の組織化(例:国際会議の組織)が必要だから。



一方ジジェクは対抗的イデオロギー復権を主張します。実践的には彼の言葉でいうコミュニズムの立ち上げです。
その実他者の侵入を恐れ「寛容」な立場をとることで、あらゆる問題に対して手をこまねく
議会制民主主義・リベラル民主主義から、
強い意味(本書では「謎・混乱・当惑」)の共有を前提とした、相互に限界を抱える弱者の連帯へ。



これだけではマルクスの理論と大差ないように思えますが、ジジェク
・強大な役割を付与された国家と、その国家間の枠組みの重要性
・他者認識の現代的な書き換え(不可解で不透明な限界のなか、他者を認識し連帯を求める)
をも主張しています。この2点が加わることで彼は、現代流に進化したコミュニズムを提唱しています。

  • 課題

日本で暮らす私たちは、コミュニズムという理念にアレルギーを抱きがちですので、
ジジェクの議論が、日本の政治状況に直接、強い影響を与えることはおそらくないでしょう。
しかしながら彼の思想の是非を問う前に、その思想からどうエッセンスを抽出し、
実践的な日々の議論につなげていくか。求められているのはおそらく、ラディカルな議論から学ぶ態度です。

信仰心が薄れる「隠れキリシタンの里」【長崎:五島列島】

クーリエ・ジャポン10月号の「世界が見たNIPPON」という
特集に、五島列島(長崎県)に関するニューヨーク・タイムズの記事がとりあげられています。



五島列島は、鎖国時代のキリシタン迫害がら逃れた方々が、カトリックの信仰を
守り続けているということは、ご存じの方が多いかも知れません。
(現在も、列島内自治体である新上五島町の全人口約二万五千人のうち、
四分の一がカトリックなのだそうです)



記事は信者の減少や高齢化、若い司祭やシスターの不足、教会の閉鎖、
信仰の世代間の断絶(島の若者の相当数が、都会へ出ていき信仰を引き継がない)
といった、島のカトリック信仰にまつわる変化の様子を記述しています。
また、教会の世界遺産登録と行政の管理についても触れられています。



さて、本記事で登場するある神父さんは、こうコメントしています。
「物質的に豊かになると、人はやすらぎや癒しをモノに求めるようになるのです。」



確かにその通りかもしれません。
豊かな社会では消費行動によって、私たちは意味や価値を獲得できるようになります。
(「プリウスに乗って、家族と一緒に田植え体験をする」→エコ・環境教育・家族を大事にする私)
物語的消費とか言われるこういった消費行動の隆盛が、意味や価値を供給する機能を果たす
宗教の役割を相対的に低下させているということでしょう。



しかし、もうひとつの要因は当然指摘されます。
宗教は、共同体における人々の集合行為という側面があり、共同体に意味や価値を供給し、
その意味や価値を介して個人を共同体に結びつける機能を果たすのです。
(地方の有名なお祭りをイメージしてください。徳島の阿波踊りや岸和田のだんじりなど)
※ここでいう「共同体」は「地域」に限定される概念ではないですが、以下「地域共同体」としてお読みください。
このことは、共同体に人が少なくなれば、必然的にそこでの信仰活動が脆弱化してしまうということを指しています。
本記事でも触れられているように、五島のような離島自治体は現在、産業の衰退化などの影響からか
急速な人口減少に悩まされています。
カトリックは中でも共同体に働きかけることで、歴史的に世界で勢力を拡大してきました。
であるがゆえに、離島という共同体の社会環境の影響を強く受けてしまうのです。



島の方々には、教会の世界遺産化、「観光コンテンツ化」に抵抗があるという方も多いそうです。
確かにこのことで、行為としての信仰を通じて、島の心や結束を感じるといったようなことは
難しくなるのかもしれません。
古くから島で信仰を守り続けてきた方にとっては、寂しいことでしょう。



とはいえ、「信仰を可視化」し、メンテナンスの対象とすることによって、
信仰の風化を避け、次世代にその価値を引き継ぐ望みを繋ぐことができる、
このように考えることも可能ではないでしょうか。
行政に任せず島の方々が、少人数でも教会のメンテナンスの主体として関わる。
よそ者のセンチメンタリズムかもしれませんが、それは形を変えた「信仰」だと私は思うのです。